東晋の歴史は内乱の歴史である。
下記五つの勢力が相争う。
皇帝宗族外戚(北)
北来貴族(北)
北府軍(北)
江南土着勢力(南)
西府軍(南)
※()内は由来。北は華北から逃げて来た勢力の集まり。
南は土着勢力。
- ●318年東晋成立 五陣営の権力争い
- ●西府軍総帥桓温 禅譲手前まで迫る。
- ●383年淝水の戦い→北府軍伸長 陳郡謝氏、名声高まるも宗族司馬道子に潰される。
- ●399年孫恩の乱 三つ巴の権力争い最終決戦
華北王朝に対する北伐すらも、国内事情に後押しされたものに過ぎない。
この中で最終的に勝利を収めるのは、
北府軍出身の劉裕である。
ただ、北来貴族は、
梁末までは隠然たる力を持つ。
北府軍と北来貴族連合の勝利とも言える。
●318年東晋成立 五陣営の権力争い
322年の王敦の乱に意識が引っ張られるが、他反乱も多い。
東晋成立から10年強は内乱状態。
東晋成立初期は、
皇帝と北来貴族の伸長に反比例して、
江南土着勢力の没落する。
何の権力基盤もない、
皇帝・北来貴族は、江南土着勢力を切り崩して、
自分の資産を得る。
江南土着勢力の一方は味方に取り込み、一方は敵視して、
抹殺する。これを主導した王導はまさに冷徹な「政治家」である。
皇帝・北来貴族が権力基盤を構築する中で、
存在感を増したのが、西府軍である。
皇帝・北来貴族が江南土着勢力や北来の豪族たちを排除するのに、
西府軍は利用された。
東晋初期の西府軍は、イコール陶侃(トウカン)のことである。
陶侃は司馬越直属であった。
また西府軍自体の由来を辿ると実は西晋の羊祜(ヨウコ)である。
都督荊州諸軍事の羊祜が善政を施し、民に慕われた。
それを劉弘が継ぐ。劉弘は八王の乱が終わる306年に死去する。
それを受け継いだのが陶侃である。
西府軍は、羊祜に由来する。なので、
建業・揚州エリアとは別枠である。
荊州と揚州の間には山岳部もあり、別物と思った方がいい。
陶侃が頷かなければ、荊州および西府軍は東晋につかなかったのである。
陶侃は悩みながらも結果的には東晋についた。
陶侃の死後は、外戚の庾氏(ゆし)が西府軍を掌握するも、後に桓温が掌握。
外戚の庾氏の権勢を削ぐためだったが、裏目に出る。
●西府軍総帥桓温 禅譲手前まで迫る。
桓温により、
347年蜀の制圧、356洛陽一時的回復。
とにかく思いっきりの良い男である。
桓温の名声は最高潮。
しかし禅譲失敗。
桓温は蜀の制圧成功、洛陽の一時的な回復などと数々の軍功を上げる。
高い名声を得、
桓温が禅譲まで迫る。
しかし、北来貴族の抵抗で、
禅譲は失敗に終わる。
ここから、
北来貴族の巻き返しが始まる。
中心人物は陳郡謝氏の謝安である。
●383年淝水の戦い→北府軍伸長 陳郡謝氏、名声高まるも宗族司馬道子に潰される。
北来貴族が巻き返しを図る中、
前秦の苻堅が大挙して東晋に攻めかかる。
383年淝水の戦いである。
淝水というとわかりにくいか、寿春近郊である。
司馬懿の芍陂の戦い、石勒の葛陂の戦い、
いずれのこの寿春周辺で戦いが起きている。
この寿春周辺こそが、北と南の境界線である。
具体的には湿地帯が増え、馬が使えず、南側としては守りやすい。
この戦いは前秦の自壊もあり、東晋の勝利に終わる。
陳郡謝氏の名声が瑯琊王氏と並ぶものとなる。
またこの戦いで大きな存在感を見せた
北府軍も権力を伸長させる。
北府軍は元々北から逃げてきた豪族が
連れてきたいわば民兵のようなものが原点である。
ここで陳郡謝氏の謝安の足を引っ張るのが、
宗族の司馬道子である。
司馬道子が謝安の動きにストップをかける。
謝安は385年に死去。司馬道子の専権。
内乱状態へ入っていく。
その最中、北来貴族は司馬道子に抗し得ず、
歴史の表舞台からはいなくなる。
とはいえ、彼らは後の権力者たちの権力基盤、支持基盤となるのだが。
結果として、
司馬道子親子と、
北府軍劉牢之と西府軍桓玄(桓温の息子)が権力を握る。
この後三つ巴の戦いとなる。
●399年孫恩の乱 三つ巴の権力争い最終決戦
孫恩の乱で司馬道子親子が没落する。
司馬道子親子の失策が原因。この親子は失策続きなのだが、
最後も失策で致命的となる。
・402年桓玄簒奪
西府軍の桓玄禅譲成功。司馬道子親子殺される。
北府軍の劉牢之は、北府軍内で支持を失い、劉裕が後を継ぐ。
劉牢之は戦いには強かったが、政治的センスがなかった。
・404年劉裕実権を握る。
劉裕は北府軍を掌握し、桓玄に対してクーデター。
桓玄を倒し、
北府軍の劉裕が政権掌握。
劉裕は北伐を成功させ、
黄河南岸まで北の国境線を大幅に押し上げることに成功する。
そして、禅譲へ。
・420年劉裕、東晋から禅譲成功。
宋を建国。