歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋創業者元帝司馬睿①生い立ち 祖父母の叔父への偏愛が司馬睿の影を薄くする。

司馬睿は東晋の祖でありながら、影が薄い。

何を成したのか、どういう人物だったのか、わかりにくい。

 

似たような境遇の人物として、南宋の高宗がいるが、

まだ事績が伝わる。それは治世の長さだけが理由ではない。

司馬睿は、そもそも主導権を発揮できる立場になかった。

 


●父の早世。



司馬睿は司馬懿の曾孫(ひまご)。

司馬伷の孫。

従兄弟が世祖武帝司馬炎である。

西晋皇帝の親戚であるが、

父が早死してしまったことにより、

かなり割を食っていた。

 

司馬睿は生年276年、没年323年である。

嫡流だが父は早逝。

父司馬覲(生年256年)は

290年に34歳で亡くなっていた。

司馬睿は当時14歳。

父が確固たる基盤を作り、

その後見の下、後を継ぐという

理想的な形にはならなかった。

とはいえ、これは歴史上よくあることだ。

 

嫡流なので、叔父たちの補佐を得て、

後を継ぐ。そのようなことはよくある。

しかしそうはならなかった。

 

父の早世は、司馬睿にとっては、

父の後見なしで後を継ぐ以上の意味を持っていた。


●祖父母の三男司馬繇に対する偏った溺愛


それは、

祖父司馬伷の意向により、

父の世代は分割相続であったためである。

 

その理由は司馬伷と正妻諸葛太妃の、

三男司馬繇に対する溺愛にあった。


司馬伷は、司馬懿の第四子。

生年は227年、没年は283年である。

三人の兄がいる。

司馬師、司馬昭、司馬亮。司馬亮とは同母弟である。

 

諸葛太妃の父は、

魏末に諸葛誕の乱を起こした、諸葛誕である。

弟に諸葛靚(しょかつせい)がいる。

諸葛誕の乱の際、父により呉に

質として出され、その後呉に仕えた。

蜀漢の諸葛亮と同族で、瑯琊諸葛氏である。

司馬伷家は西晋王朝を支える

非常に重要な家である。

本来は、家単位でまとまるべきで、

他家もそのようにしていた。

嫡流が家を継ぎ、ほか弟たちは、

部屋住まいである。

それが当然である。

 

しかし、

司馬伷・諸葛太妃は司馬繇への溺愛のため、

それを嫌った。

司馬伷は分割相続を遺言。そうすることで、

愛する司馬繇に一家を建てさせたのである。

そのため、分割相続になった。

 

これでそれぞれがそれぞれの意思を持つ。

つまりバラバラに動く、

ということである。

 

司馬伷家は、これで事実上バラバラになった。

 

余談だが、司馬伷家の封地のひとつに

瑯琊があるのは、

祖母が諸葛太妃に由来すると思われる。

父が諸葛誕。

諸葛氏は瑯琊が本籍。

諸葛亮と同じ。

諸葛誕は魏末に乱を起こしたのに、

このように配慮されるのは、

下記の記事に記載がある。

●諸葛誕 賈充

 

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283年の司馬伷の死去に伴い、その封地は、分割された。

 


司馬覲

司馬澹

司馬繇

司馬漼

の四兄弟で分割した。

 

司馬伷の同母兄司馬亮が

司馬伷家の後見をすることになっていたが、

後の展開を考えるとそれもうまくいかなかった。

司馬繇は能力はあったのだろうが、

甘やかされたからなのか、そもそも傲慢なのか、

司馬亮をはじめ、親族から嫌われた。

 

なお、

司馬睿はほかに4人の司馬氏の王とともに、

江南に行くのだが、

それを五馬渡江という。総勢5人の王なのでそう呼ばれる。

司馬睿以外の三人の王が司馬亮家(もう一人は司馬越家)である。

司馬睿と司馬亮の関係性が浅くなかった事例である。

 

●司馬伷家の分裂

 

この段階で、

既に司馬澹と司馬繇は兄弟喧嘩をしていた。

しかし、西晋の治世はまだ安定していて、

兄弟喧嘩レベルに留まっていた。

彼らは290年以降はすれ違いで顔も見合わせていない。

290年以前に

激しく兄弟喧嘩をしないとこういう展開にならない。

 

しかし、

290年に事態は急変する。

武帝司馬炎の崩御を機に、政争が激化。

広義の八王の乱が始まる。

同年、司馬伷家の長男司馬覲が34歳で死去。

司馬覲の嫡男司馬睿が14歳で後を継ぐ。

この二つの事変で、

司馬伷家はバランスを失い始めた。