歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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戦国時代概説② 最初は魏の時代

 

戦国時代のスタートを印象付ける

事件は、韓魏趙の三晋独立である。

 

智氏にやられそうになっていた、

三氏が逆転して、独立するこの快挙は

印象深い。

 

その中から、

晋の主要地域を継承した魏が、

魏の文侯という名君を戴くことで、

まず覇を唱えることになる。

 

魏は旧晋の主要エリアを継承した。

そして、晋の時代に由来のある制度を元に、

法、文書行政、官僚制を完成させ、

魏は覇権国へとのし上がったのである。

 

 

●戦国時代をスタートさせる象徴的な事件、三晋独立。

 

戦国時代は、

通説では、

前451年(前453年)から始まる。

 

実態は、

前497年に

晋において、趙氏一族の内紛に絡み、

晋の六卿が争いあったのが始まりだ。

 

中行氏と范氏が滅びる。

智氏が巧みに中行氏と范氏の旧領を

獲得する。突出した力を持つようになる。

智氏は、

ほかの韓魏趙を圧倒する。

 

前455年ー前451年晋陽の戦いが起きる。

智氏当主智瑶(チヨウ)は

韓魏を事実上従属させて、

趙氏を滅ぼそうとする。

 

しかし、

韓魏が土壇場で趙氏に裏切り、

智瑶は滅びる。

 

これにより、

韓魏趙の三氏が、晋を事実上分割。

前401年(前403年)に、

この韓魏趙が斉に出兵、

姜斉の最後の君主康公を捕虜とする。

韓魏趙は斉の康公を連行、

周に向かい、威烈王に謁見を求める。

韓魏趙は自分たちを諸侯に加えるよう、

周の威烈王に迫り、許される。

 

これが

韓魏趙という三晋と呼ばれる諸侯が

完全独立するまでの歴史である。

 

いずれも武力に物を言わさせていることに
注目したい。

 

この時代は春秋時代の末期から、

戦国時代へ入る時期である。

 

権威ではなく、

実力行使が物を言う時代へと

変化している。

 

こうして戦国時代に突入していく。

実力行使の時代である。

 

●戦国時代、初めに覇を唱えるのは魏文侯

 

三晋の勃興はその象徴であった。

その中で、

最も力を持ったのが、魏である。

 

戦国時代の前半期における

主役は魏である。

 

魏を主役に立たせた、

この立役者は、

魏の文侯である。

 

文侯の父魏駒が、

事実上の三晋分裂を達成した人物である。

 

前455年(前454年)の晋陽の戦いが起こり、

その後、前451年(前453年)戦いの集結で

事実上の晋分割がなった。

魏の君主として魏駒は参加していた。

 

魏駒はその後数年して亡くなり、

子の魏の文侯が前442年に後を継ぐ。

 

●名君魏の文侯の長い治世が魏を隆盛に導く。

 

魏の文侯の没年は、

前395年であり、

前442年からの治世期間は

47年に及ぶ。

 

君主の長寿のための治世期間の長さは、

国家運営の安定に繋がる。

 

中華の君主の平均治世期間は、

20年前後で、

これ以上なら長いと言える。

 

その倍近くを統治した魏の文侯は

相当に長い期間統治し得たと言える。

参考までに中華皇帝在位ランキングを

 

下記に記す。

 

●●劉禅 在位年数

 

www.rekishinoshinzui.com

 

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①清康熙帝61年

②清乾隆帝60年

③前漢武帝54年

④遼聖宗49年

⑤明万暦帝48年

⑥南朝梁武帝47年

⑦明嘉靖帝45年

⑧唐玄宗44年

⑨北宋仁宗41年

⑩蜀漢後主40年

⑩南宋理宗40年

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あの南朝の梁武帝と同じ在位年数である。

魏の文侯が相当に長い期間、在位したことがわかる。

 

この治世期間の長さは、

統治の安定性を生み出す。

 

●魏文侯の行政改革

 

魏の文侯は、

法の整備に乗り出す。

 

これを主導したのが李悝である。

 

〈魏の法整備の背景〉

 

法の整備の第一義は、

文書行政の推進である。

 

魏は、

東西に伸びた領域を持っていた。

当時は、都市支配をベースとしていた。

魏は西は黄河西岸から、中原にまで

支配都市を持っていた。

 

その範囲の中に、韓や趙の支配都市が混在し、

領域を分ける国境を引くのが難しい状況であった。

 

このような広大なエリアに広がる

魏の支配都市をそれぞれ統治するのに、

文書行政が必要となった。

 

これまでの春秋時代以前は、

君主の同族、

もしくは同族とみなす人物およびその一族に

それぞれの都市を統治委任してきた。

 

都度軍事行動や大規模な土木工事などの

国家的活動の際に君主の命令に従うというものだった。

その大元締めが周王である。

血統に基づく同族統治から始まる。

 

のち周王の力が失墜すると、

周王は権威に変わる。

 

文字、青銅器鋳造などの周独占の文化力が、

春秋時代に広まり、

権威と畏怖の念を周王に抱かせた。

 

各国諸侯は以前から、

周王との血統や祖先のつながりを

統治の大義名分にしていた。

周王の力が失墜した後のこうした

周王の権威化は各国諸侯にとっても都合がよかった。

 

しかしながら、

権威が薄れ、実力の時代になれば、

この統治スタイルは通用しなくなった。

 

このような時代へ変化したのが、

戦国時代である。

 

●魏が法の整備で中央集権制国家のさきがけとなる。

 

魏の文侯という君主のいう通りにする、

そのために官僚という存在が生まれる。

魏の文侯の信任を受けた、

官僚が魏の支配都市に派遣される。

 

魏の文侯が運用する中央行政機関から、

発せられる命令が文書で届く。

 

官僚の通常統治の運用は既に制定されている

法に則って遂行する。

 

この、法というのは、

成文法のことである。

 

〈法整備の先駆けは鄭子産、晋趙鞅と中行寅〉

 

先鞭をつけたのは、

鄭の子産である。

それまでは、

ヨーロッパのノブレスオブリージュと同じく、

徳と教養を持つ貴族が

その場その場の判断で対処をしてきた。

 

しかし、

それを初めて明文化したのが鄭子産である。

鄭が晋と楚という二大強国に挟まれ、

国としてのまとまりに欠けることが

成文法制定の背景であった。

 

晋の叔向からは酷評されるが、

晋もこの後すぐに成文法を制定する。

叔向の没後、その一族羊舌族が滅ぼされた前514年直後に

行われるのは何とも感慨深い。

 

前513年に

趙鞅と中行寅が刑鼎を作成し、

公開する。

 

士匄(范宣子)が定めた法を明示したものである。

士匄は士会の孫で、この家は代々晋の法を司る家であった。

このように既に晋には

法の概念があり、明文法まで至っていた。

 

この晋の最先端の歴史を受け、

この流れをさらに促進したのが、

魏の文侯である。

 

 

●魏の文書行政が呉起と西門豹の活躍を産み出す。

 

 

法の整備が実施される。

それは、

文書行政という形で実行される。

この文書行政の実現により

成功を納めた人物がいる。

 

呉起と西門豹だ。

 

魏の文侯の時代、

活躍した。

 

彼らは 君主の血族ではなかった。

 

呉起は、

黄河西岸、

西は洛水に囲まれた西河と言われるエリアの行政長官である。

呉起は官僚である。

君主の血族でもなんでもない人物が、

君主の領域を代官として統治する。

呉起は衛の出身でよそ者でもあった。

 

そのような人物が、 

君主の血族でもない人物が

統治をする、

 

〈非血族統治の先鞭をつけた晋〉

 

実は、

これに先鞭をつけたのが

魏の前身国家の

晋である。

晋は晋の文公重耳が蒙った内乱に鑑み、

君主以外公族が居られない決まりがあった。

 

そのため、韓魏趙を始めとした有力一族を

公族に擬して

(仮公族として扱うようなもの。血族でも姻族でもないのに)、

晋の支配都市を統治していた。

 

これは、血統主義で統治を行っていた、

西周以来のこれまでの伝統を大きく変える施策だった。

 

これが晋において行われたのが、

晋の景公の時代、正卿は趙盾で、

前601年のことである。

 

これの発展系が

魏の文書行政に基づく、

官僚制度である。

呉起は魏の支配エリアの西端で

君主の代理として統治を行う。

 

〈呉起の活躍〉

 

呉起の担当した西河は、

関中、渭水盆地で

すぐ西には秦がある。

洛水を西に越えたら秦である。

 

この時点の秦はまだ夷狄国家であり、

荒々しく直接的に、

西河の呉起を攻め立てる。

 

しかし、これがポイントだが、

魏では

法と文書行政が整備されている。

 

これに基づいて、

すぐに軍事行動を動かすことができるのが、

大きなメリットである。

 

わかりやすく言えば、

こういう事態が起きたら、

こうしろ、というマニュアルができているのだ。

法、すなわち拘束力のあるマニュアルなのである。

 

例えば、秦が軍事行動を起こした。

魏の支配都市を包囲しかかってきたら、

兵を動員し、防御戦を行え。

というものである。

 

ダイレクトに事象でない場合は、

その都市の行政長官が情勢を判断し、

法に基づいてアクションの決定、遂行を指示する。

というわけである。

 

 

それが非常にうまくいったのが

呉起なのである。

 

〈西門豹の活躍〉

 

そして、

もう一つの事例が

西門豹である。

 

西門豹は、

後に南北朝時代の終わりまで栄華を誇る

河北の鄴の基盤整備を行った。

呉起の西河に対して、

鄴は魏の東端である。

西門豹もやはり官僚である。

 

西門豹は鄴に派遣される。

この地は水害が多かった。

そのため、生娘を生贄に河の神に

治水を祈った。

これを西門豹は悪習と判断、

やめさせ、治水工事を推進する。

 

鄴の民はこの西門豹の施策に多大な恩恵を享受した。

 

しかし、この治水工事は

鄴の現状の人口に比して、

大規模なものだった。

 

ここまでやる必要はないのではという

反対意見が上がる。

 

これに対して

西門豹に聞くと、

将来を見据えた灌漑設備であると答えた。

 

この話からわかるのは、

西門豹という特に名族ではないものが、

魏に登用され、

ある程度の決定権を持って鄴に赴任しているということだ。

 

そして、

鄴において国家視点で施策を決定していることがわかる。

西門豹の将来を見据えた鄴の整備の、

最大の恩恵を受けたのは、曹操である、ということを

付け加えておく。

 

●法と文書行政あってこその呉起・西門豹の活躍。


呉起も西門豹も、

2000年以上経た我々にその事績が伝わるのは、

当時最新の手法であった、

法と文書行政があってこそというのがわかる。

 

法と文書行政を運用する官僚が、

呉起と西門豹だ。

だからこそ彼らの末路は同じである。

 

呉起と西門豹は、魏の辺境地帯で高い業績を挙げた。

しかし、それは魏の中央政府の官僚に嫉妬された。

 

彼らは足を引っ張られ、

両者とも結局自ら魏を去る。

西門豹は魏の文侯の時、

呉起は文侯の子魏の武侯の時である。

 

法と文書行政は整備されたものの、

官僚信任は君主の度量である。

革新的な国家統治の方法にまだまだ君主の方が

ついていけていなかった。