歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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【春秋晋の年表②】正卿時代

正卿趙盾が権力を握ってから、

晋は晋公ではなく、正卿中心に政治が動く。

 

 

趙盾が経緯はともあれ、前607年に晋霊公が殺され、

そして晋成公を擁立したことにより、

正卿の権限は絶大なものとなる。

 

この前607年から、前574年に欒書が晋厲公を殺すまでは、

正卿を中心に晋がよくまとまっていた時代と言える。

 

●前601年 趙盾の引退。

 

 

趙盾は成公の前601年に引退。後継の正卿は郤缺。

その前に、

趙盾は上記の制度では卿の一族の中で、

一人しか公族になれないが、それを異母弟の趙括に

譲った。趙括の母の恩義に応えた。

 

趙括の母は、

趙衰の正妻で、趙盾にとっては義理の母に当たる、

晋の文公の娘が趙盾を当主に指名。

 

この時点の趙家当主は趙盾である。趙盾の母は季隗である。

後にこの二つの系統は100年の後に対立関係に入る。

これにより、趙氏は二つの系統が確立し、後に対立する。

 

●前600年晋成公の死去。

 

晋の成公は前600年に死去。

晋の景公(在位 前600年―前581年)が後を継ぐ。

 

●前597年邲の戦い 晋景公対楚荘王

 

晋の景公の時代の、前597年に重要な戦いが起きる。

邲の戦い(ひつのたたかい)である。

楚の荘王率いる軍勢を、

正卿荀林父(同年に郤缺死んで正卿となる)が率いた晋軍が迎え撃ち、

鄭国内で会戦。

晋が敗れた戦いである。

 

中原諸国の盟主晋は、夷狄を撃退するのが本来の役目である。

にもかかわらず、この邲の戦い(ひつのたたかい)で

夷狄のメインである楚に敗れてしまった。

 

楚の荘王が中原の覇権を握る。

晋の国威は低下。

邲の戦い(ひつのたたかい)の敗戦は方々に大きな影響を与えた。

 

●前597年邲の戦いの敗戦後、趙盾系趙氏趙朔の滅亡

 

 

邲の戦い(ひつのたたかい)において

下軍の将趙朔が下軍を全滅させてしまったため、

国内からの風当たりが強くなっていた。

 

そこを狙いをつけて、

趙氏当主趙朔を屠岸賀が追い詰める。

 

屠岸賀は司寇で、つまり酷吏と後世言われる存在。

自らの出世のために、君主におもねって、

人に罪を被せる。

趙朔は父の趙盾がその執政の時代、

晋の霊公を見殺しにしていたから、

屠岸賀にとってはやりやすかった。

 

趙氏は晋の景公の承認の元、族滅となる。

有力氏族がいなくなることは、すなわち晋景公にとっては、

権限が増える。

 

このときこっそりと生き残ったのが後の趙武であるが、

その話はまた後ほど。

 

趙朔は趙盾が一族から一人しかなれない公族を辞退し、

異母弟の趙括に譲っていたので、

分家扱いになっていた。

趙括は本家扱いで、

卿の家から一人だけなれる公族であった。

趙括は晋公の血を引いている名家である。

しかし趙盾の死後、後を継いだ趙朔の方が評価され、

卿、すなわち三軍の将、もしくは佐になるのは、

趙朔であった。


このようにして趙括は恨みを買っていた。

また晋の景公としては、趙朔が滅んでくれた方が、

趙氏の勢力を減らすことになる。

趙氏として残すのも、自身と血の繋がりのある、趙括の方がいい。

 

晋の景公は趙括と結託。

屠岸賀を使って趙朔を滅ぼした。

 

 

●前597年邲の戦いの敗戦により、荀林父は死罪を求める。

 

 

総大将で正卿の荀林父は、帰国後晋の景公に死を賜ることを求める。

 

邲の戦い(ひつのたたかい)の戦いの敗戦は、

春秋左氏伝に

「黄河に指をすくえるほど、指が浮いていた」

と著される。

 

大敗であった。

そもそもだが晋軍が黄河を後ろにして布陣しているのもまずい。

 

これほどの大敗だったが、荀林父自身の死罪嘆願は

晋の景公に認められなかった。

 

後に荀林父は、鄭へ出兵。

戦わず、閲兵式のみの示威行動で、

楚へついていた鄭を引き剥がす。

 

荀林父の名誉が回復された瞬間だった。

 

●前593年正卿荀林父死去。士会が正卿となる。

 

荀林父は前593年に死去。

正卿は士会となる。

士会は上党方面の攻略に成功。

しかしわずか2年にして、

正卿の座を降りる。

 

郤克の登場である。

 

●前591年士会の引退、郤克、正卿となる。 

 

郤克は前589年に斉に対して戦いを仕掛ける。

鞍の戦いと呼ばれる。

 

これは士会が正卿の時、郤克は斉へ派遣された。

郤国は中軍の佐で、士会に次ぐNO.2の地位であった。

ちょうど斉の頃公のもとに、

魯の季孫行父、衛の孫良父、曹の公子首が

来ていた。

そこに郤克は、登場したのだが、

彼らは郤克の姿を見て、笑ったのである。

 

郤克は身体に障害があり、足を引きずっていた。

また、外見も良いとは言えず、

禿げ頭、目が片方しかない、背筋が曲がっていてラクダのようだと、

あざける。

 

斉の頃公は、母や宮廷に使える使用人たちまでも呼んで、

郤克を見世物のようにして笑い合った。

郤克は当然のことだが、この侮蔑に激怒。

郤克は帰国し、正卿の士会はこの話を聞く。

すぐに士会は正卿の座を郤克に譲る。

 

士会は当然、郤克が、

風貌とは関係なく、有能で、かつ激情の持ち主であること

を知っていた。

 

士会だけが郤克を使いこなせたのであり、

郤克が受けた屈辱を郤克自身がどう処理をするのかわかっていた。

それで、士会は郤克に正卿の座を譲った。

 

郤克は衛と魯の救援要請をきっかけに、

斉に戦いを仕掛ける。

 

晋は前597年の邲の戦いで楚の荘王に敗れてから、

中原諸国に対しての覇権を失っていた。

特に斉は、斉の桓公以来旧覇権国としてのプライドがあり、

晋の言うことを素直には聞かない。

それで上記のようなことが起きるのである。

しかし楚の荘王は前591年に死去。

邲の戦いの後、

荀林父は楚に付いた鄭を再び属国化し、

士会は上党の異民族を排除。

晋は国力を回復させながら、足場を固めていた。

 

●前589年正卿郤克、私憤から斉を攻撃。成功し晋の威権復活。

 

そうしたタイミングの鞍の戦いである。

晋としては、もう少し国力を充実させてから臨みたい戦いだった。

晋がこれで晋の前の覇権国斉に負けては、

中原の盟主としての立場から陥落するのである。

 

晋にとっては危険な賭けであったが、

何とか勝ち切る。

 

場所は今の済南市の北西で、晋が斉に果敢にも

深く攻め込んでいるのがわかる。

 

●晋が六軍を編成、周王と同格。

 

この戦いの後、晋の景公は、三軍から六軍へと編成を拡充している。

これは単純に軍備の拡張ということだけではない。

六軍とはこの時代、周王だけが備えることができるものである。

斉への勝利で、中原の覇権国としての復帰の明示、

周王と同格であることの誇示である。

 

この当時の晋は、既に周を必要としなくなっていた。

 

●前587年郤克死去、正卿の位は欒書へ。

 

 

郤克は前587年に死去。

正卿は欒書が継ぐ。

晋の景公は前580年に死去。

後を晋の厲公(在位 前580年ー前574年)が継ぐ。

 

●前575年鄢陵の戦い。晋厲公対楚共王

 

欒書が正卿の時に

前575年鄢陵の戦いが起きる。

場所は新鄭の南東。

 

晋の厲公 対 楚の共王

晋の中軍の将(正卿)は欒書(らんしょ)。

晋の勝利。覇権を取り返す。

中原から楚の影響を排除することに成功した。

 

晋は中原の覇権国としてのポジションが明確となる。

楚は南方の覇権国として中原を狙うという

晋楚の対立構図が明確となる。

今後は、

どちらかが優勢になることはあっても、

大きくどちらかを凌駕するということはなくなる。

 

勢力の均衡が確立し、

正面切って晋と楚が争うことは少なくなっていく。