桓温の登場は345年である。それまでに、
各勢力の実力者が死んだことで、桓温にお鉢が回ってきた。
蘇峻の乱が鎮圧された結果と、
外戚の庾亮を最高権力者として、東晋はようやく落ち着いた。
それは、
瑯琊王氏を筆頭とした北来の貴族、
呉郡四姓ら江南土着勢力、
北府軍、
西府軍、
外戚、
の5つの勢力のバランスが整ったことによる。
このうち、江南土着勢力は、
うまく東晋に取り込まれたようで、この後政局には出てこない。
これらの勢力の領袖がそれぞれ表舞台から退場して、
桓温という東晋の作られたヒーロが登場する。
●次々と各領袖が世を去って行く。
江南土着勢力以外の
四勢力の領袖が、
蘇峻の乱の後10年程度で
次々亡くなっていく。
陶侃 334年死去(西府軍)
郗鑒 339年死去(北府軍)
王導 339年死去(北来貴族)
庾亮 340年死去(外戚)
●334年、西府軍の祖陶侃の死。
まずは陶侃の334年死去によりバランスが崩れ始める。
これを受けて、庾亮が西府軍を継ぐ。
庾亮は蘇峻の乱の原因を作ったため、
中書令を辞任し、
豫州刺史として蕪湖に出鎮していた。
(中書令は皇帝が詔書を出す機関の長)
豫州刺史というが、豫州に駐屯するわけではなく、
豫州刺史なのだから賊の後趙に奪われている豫州を回復する
ミッションを担っているという意味で捉えた方がわかりやすい。
中書令を辞任したが、
中書令の後任は弟の弟庾冰。
引き続き弟庾氏としては権限を握っていた。
陶侃の死を受けて、庾氏が権力を握る。
庾亮率いる外戚庾氏が頭一つ抜け出て権力を握る。
●庾亮の北伐計画、未然に石虎に潰される。
そして、
333年8月に後趙の石勒が死去したため、
庾亮はこの波に乗って北伐を狙う。
庾亮は真面目な原則主義者で、
蘇峻の乱の不名誉を晴らしたいという気持ちもあった。
しかし逆に後趙の後継者石虎は庾亮の動きを察知。
養子の石閔を使って荊州・揚州に攻め込ませる。
北伐の拠点邾城を陥落させられ、
庾亮の北伐計画は頓挫。庾亮はさらに不名誉を重ねてしまう。
●王導、郗鑒は339年、庾亮は340年に死去。
一方、王導は339年に死去。
霍光と司馬孚の葬儀に殉じたものを行った。
庾亮は中央に召還命令が出るも、応じず、
弟の庾冰が受ける。
そのまま庾亮は340年に死去する。
西府軍は弟の庾翼が引き継ぐ。
北府軍の郗鑒も339年に死去。
そういった具合に、各勢力の有力者が次々と世を去る。
340年の時点では、
庾亮の弟、庾冰と
西府軍を握る庾翼のみが在世であるが、
それぞれ庾冰が344年、
庾翼も345年に死去。
各勢力の実力者が次々と亡くなっていった。
そこに加えて、
342年に三代皇帝の成帝が崩御、
さらに344年には四代皇帝康帝も崩御。
2歳の幼帝穆帝が即位。
東晋は非常に不安定な状況となる。
そこで、抜擢されたのが桓温である。
中書監、録尚書事の何充の推挙である。
華北は、石勒により統一。
それを石虎が引き継ぎ、華北の失陥は固定化された状況となっていた。
東晋勢の劣勢は否めず、
にも関わらず、長い間内乱が続いていた。
東晋にとって、長く暗い時代が続いていた。
そこに登場したのが桓温である。
●桓温は王敦と同じ皇帝の婿。
桓温は、二代皇帝明帝の娘の婿である。
時の皇帝穆帝の義理の叔父にあたる。
桓温は父の仇を討つなどして
輿論から高い名声を得ていた。
孝道としての賞賛だろう。
この暗い東晋初期の時代に、
桓温の清々しさは、当時の人々の気持ちを晴れ晴れとさせた。
その輿論を後ろ盾にして、皇帝の婿となったのである。
皇帝の婿となるほどの血筋でもない。
明らかにこれは東晋高位層の人気取りである。
東晋としてみれば、建国当初の仲間割れだが、
西晋から続く晋王朝としてみれば、絶望的な状況であった。
人気取りしなければならないほど追い詰められていたのである。
桓温の強みは、
思いっきりの良さである。
硬直した漢人社会においては、
桓温のストレートさが受けたのだろう。
桓温は暗い東晋初期の時代が作った。
作られたヒーローである。