桓温の第一次北伐前夜。
ようやく北伐の命が桓温に下される。
機を逸したのは東晋の保守的な事情であり、
桓温が長安を攻めたのも東晋の内部事情が原因である。
自由に動けた印象のある桓温は、実は非常に足枷の多い中、
やり繰りをした、それが実態である。
●桓温に北伐のお鉢が回ってきた背景:
外戚褚裒(チョホウ。唐の太宗・高宗に仕えた褚遂良の祖先)、
清談の士殷浩の北伐失敗により、
お鉢が周ってきた桓温である。
桓温自身は、北伐を申請していたものの、
東晋建康政府首班の司馬昱がこれを許さなかった。
というよりも、華北への全面戦争へ踏み切るほどの度胸が、
司馬昱になかったというのが本音だ。
褚裒の北伐はとりあえずの北伐であったし、
殷浩に北伐を任せたが、殷浩はただの清談の名士で軍事経験はなかった。
本気だったとはとても思えない。
しかしながら、安全策を取ったはずの殷浩の北伐が失敗、
東晋に帰順した羌族の姚襄が裏切ったためだ。
殷浩が姚襄を信用せず執拗に暗殺しようとしたのが原因だ。
姚襄は前燕に投降、前燕は鄴まで進駐。
石勒、石虎の後趙の後釜に、前燕は就いた。
東晋は華北回復の千載一遇のチャンスを失ったのである。
司馬昱はこの殷浩北伐の失策により政治的にダメージを受けた。
桓温の上奏により、殷浩は免官したものの、司馬昱の失策であることに変わりはない。
ここが明示されていないので、勘違いをするが、
褚裒、殷浩の二度の北伐は、政権首班の司馬昱の責である。
桓温は、蜀の成漢討伐の時に、事実上の独断専行があった。
これにより目をつけられていた。
政権中枢としては、
コントロールができない桓温はなるべく使いたくない。
東晋というのは西晋以来、保守的である。
東晋は貴族名族社会と言われるが、
階級が固定されているからこそ、これが成り立つ。
階級が固定されるというのは、
社会に流動性がないことであり、それはすなわち社会が保守的であることを指す。
西晋・東晋司馬氏が元々名族であるので、これはやむを得ない。
しかし二度の北伐に関して、失策した司馬昱は、
追い詰められたので、桓温を使うという選択肢を採る。
河北(簡単に言えば、黄河以北の洛陽以東のエリア)を
鮮卑慕容氏に奪われてたとはいえ、
まだ安定していない。
ここで攻め込まなければ、司馬昱の威勢に大きく傷がつくことは間違いがない。
桓温の北伐上奏に応じる形で、
桓温の第一次北伐が決定される。
●桓温、北伐の狙いは長安。
桓温のターゲットは、関中に割拠する前秦である。
これまで、河北を狙っていた東晋だが、
桓温は関中を狙う。
理由は二つ。
・桓温権限のみで速やかに狙えるのは長安。
桓温が軍権を握っていたのは、
荊州と蜀であった。
両エリアから直接アプローチができるのが関中であるというのが、
一つ目の理由だ。
前燕、前秦の両国と全面戦争するわけにもいかないので、
このような判断となる。
建康から刊溝を使って江北方面へ侵攻するのは、無しとなる。
この江北方面を狙うには、北府軍を動かす必要がある。
桓温の権限下にはないので、建康政府に伺いを立てなくてはならない。
ということで、桓温権限のみで動かせる、という非常に内向きの
理由で長安侵攻が決まった。
裏をかいたと言いたいところだが、
これが第一の理由だ。
・前秦のほうが弱い。
二つめは、
前秦の方が相対的に弱いというのがあった。
前燕を建国したのは鮮卑慕容部。
鮮卑は、半農半牧の民族で、完全遊牧民の匈奴と異なり、
中華の農耕文明を理解しつつ、騎馬を扱える。
つまり中華の都市文明の統治が比較的スムーズにできるのに、
騎馬を主体とした高い軍事力を持つわけである。
対して、東晋が支配する江南に馬の産地はなく、
どうしても歩兵が主体となる。
前燕は遼東から破竹の勢いで河北を占拠。
勢いがあり、また戦上手の冉閔を破った慕容恪という名将もいる。
一方、氐族の前秦は、故郷の関中に戻り、
そこが空白地であったから国を建てた。
取り立てて大きな外征もなかった。
氐族自体は漢族の文化に非常に近く、歴史的に漢化したものも
多かった。成漢は元々氐族であり、漢化させられた一族が
独立して建国した国である。
しかしながら、前秦はシャーマニズムを信奉していて、
これが全く関中の漢民族に受け入れられなかった。
シャーマニズムは民族の精霊を信仰する。
これ自体が民族、部族間をどうしても隔てる。
前秦は、建国当初からまとまりに欠ける国であった。
これが約20年続く。これが変わるのは、
前燕を裏切った慕容垂が投降してくるときである。
●桓温の第一次北伐は、荊州と蜀から。
こうした経緯で、
桓温は荊州、蜀の兵を使い、
桓温本隊は南陽から北西に武関経由で長安を、
別動隊は漢中から秦嶺山脈越えで長安を、
それぞれ攻撃する作戦を取る。354年のことである。
●参考記事: