歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑩桓温の第一次北伐前夜

桓温の第一次北伐前夜。

ようやく北伐の命が桓温に下される。

機を逸したのは東晋の保守的な事情であり、

桓温が長安を攻めたのも東晋の内部事情が原因である。

自由に動けた印象のある桓温は、実は非常に足枷の多い中、

やり繰りをした、それが実態である。

 

●桓温に北伐のお鉢が回ってきた背景:


外戚褚裒(チョホウ。唐の太宗・高宗に仕えた褚遂良の祖先)、

清談の士殷浩の北伐失敗により、

お鉢が周ってきた桓温である。

 

桓温自身は、北伐を申請していたものの、

東晋建康政府首班の司馬昱がこれを許さなかった。

というよりも、華北への全面戦争へ踏み切るほどの度胸が、

司馬昱になかったというのが本音だ。

 

褚裒の北伐はとりあえずの北伐であったし、

殷浩に北伐を任せたが、殷浩はただの清談の名士で軍事経験はなかった。

 

本気だったとはとても思えない。

 

しかしながら、安全策を取ったはずの殷浩の北伐が失敗、

東晋に帰順した羌族の姚襄が裏切ったためだ。

殷浩が姚襄を信用せず執拗に暗殺しようとしたのが原因だ。

姚襄は前燕に投降、前燕は鄴まで進駐。

石勒、石虎の後趙の後釜に、前燕は就いた。

東晋は華北回復の千載一遇のチャンスを失ったのである。

 

司馬昱はこの殷浩北伐の失策により政治的にダメージを受けた。

桓温の上奏により、殷浩は免官したものの、司馬昱の失策であることに変わりはない。

ここが明示されていないので、勘違いをするが、

褚裒、殷浩の二度の北伐は、政権首班の司馬昱の責である。

 

桓温は、蜀の成漢討伐の時に、事実上の独断専行があった。

これにより目をつけられていた。

 

政権中枢としては、

コントロールができない桓温はなるべく使いたくない。

東晋というのは西晋以来、保守的である。

東晋は貴族名族社会と言われるが、

階級が固定されているからこそ、これが成り立つ。

 

階級が固定されるというのは、

社会に流動性がないことであり、それはすなわち社会が保守的であることを指す。

西晋・東晋司馬氏が元々名族であるので、これはやむを得ない。

しかし二度の北伐に関して、失策した司馬昱は、

追い詰められたので、桓温を使うという選択肢を採る。

 

河北(簡単に言えば、黄河以北の洛陽以東のエリア)を

鮮卑慕容氏に奪われてたとはいえ、

まだ安定していない。

ここで攻め込まなければ、司馬昱の威勢に大きく傷がつくことは間違いがない。

桓温の北伐上奏に応じる形で、
桓温の第一次北伐が決定される。

 


●桓温、北伐の狙いは長安。

 

桓温のターゲットは、関中に割拠する前秦である。

これまで、河北を狙っていた東晋だが、

桓温は関中を狙う。

 

理由は二つ。

 

・桓温権限のみで速やかに狙えるのは長安。

 

桓温が軍権を握っていたのは、

荊州と蜀であった。

両エリアから直接アプローチができるのが関中であるというのが、

一つ目の理由だ。

 

前燕、前秦の両国と全面戦争するわけにもいかないので、

このような判断となる。

建康から刊溝を使って江北方面へ侵攻するのは、無しとなる。

 

この江北方面を狙うには、北府軍を動かす必要がある。

桓温の権限下にはないので、建康政府に伺いを立てなくてはならない。

 

ということで、桓温権限のみで動かせる、という非常に内向きの

理由で長安侵攻が決まった。

 

裏をかいたと言いたいところだが、

これが第一の理由だ。

 

・前秦のほうが弱い。

 

二つめは、

前秦の方が相対的に弱いというのがあった。

前燕を建国したのは鮮卑慕容部。

鮮卑は、半農半牧の民族で、完全遊牧民の匈奴と異なり、

中華の農耕文明を理解しつつ、騎馬を扱える。

 

つまり中華の都市文明の統治が比較的スムーズにできるのに、

騎馬を主体とした高い軍事力を持つわけである。

 

対して、東晋が支配する江南に馬の産地はなく、

どうしても歩兵が主体となる。

 

前燕は遼東から破竹の勢いで河北を占拠。

勢いがあり、また戦上手の冉閔を破った慕容恪という名将もいる。

 

一方、氐族の前秦は、故郷の関中に戻り、

そこが空白地であったから国を建てた。

取り立てて大きな外征もなかった。

氐族自体は漢族の文化に非常に近く、歴史的に漢化したものも

多かった。成漢は元々氐族であり、漢化させられた一族が

独立して建国した国である。

 

しかしながら、前秦はシャーマニズムを信奉していて、

これが全く関中の漢民族に受け入れられなかった。

 

シャーマニズムは民族の精霊を信仰する。

これ自体が民族、部族間をどうしても隔てる。

 

前秦は、建国当初からまとまりに欠ける国であった。

これが約20年続く。これが変わるのは、

前燕を裏切った慕容垂が投降してくるときである。

 

 

●桓温の第一次北伐は、荊州と蜀から。

 

こうした経緯で、

桓温は荊州、蜀の兵を使い、

桓温本隊は南陽から北西に武関経由で長安を、

別動隊は漢中から秦嶺山脈越えで長安を、

それぞれ攻撃する作戦を取る。354年のことである。


●参考記事: 

www.rekishinoshinzui.com

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