歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑪長安包囲 桓温第一次北伐は電撃戦

 



桓温の第一次北伐

桓温の北伐は上奏の結果、政権首班の司馬昱に許可された。

東晋皇帝穆帝は幼帝であり、皇太后称制である。

実権は司馬昱が掌握している。

しかしながら、桓温は荊州と益州(蜀)の軍権を掌握し、事実上の軍閥である

本来は、王敦の乱、蘇峻の乱のような状況が起こりそうなものの、

桓温は司馬昱と協調し、20年近く東晋は安定した状況が出現する。

 

●北伐とは、非常に割りの合わない事業。

 

 

さて、北伐に関してだが、実は非常に成功率の低い事業である。

戦争は国のメンツにかかわる問題だが、

経済活動とすると一種の事業である。

戦備調達に投資し、新たな領土、人的資源、物資を手に入れる。

それにより将来的なリターンがあればよい。

 

しかし北伐とは成功率が低いのである。

 

中華帝国の概念が生まれた秦漢以降、桓温の時代までの北伐と言うと、

蜀の諸葛亮北伐、

蜀の姜維北伐、

の二つしかない。

それぞれ5回と7回の北伐を行っている。

全て戦略目標の長安奪還は叶わず、厳しい言い方をすれば全て失敗である。

その理由は、秦嶺山脈である。

このチャイナプロパー最高峰の太白山を含めた東西に連なる山脈は、

まさに大きな壁として進軍を阻む。

漢中から長安を中心とした関中平野に到達するにはこれを乗り越えなくてはならず、

行くにも帰るにも苦労する山越えであった。

 

それはすなわち兵站の困難さを孕む。

それで諸葛亮も姜維もあぐねた。

 

春秋戦国に立ち戻れば、

楚の荘王、呉王夫差、越王勾践は、それぞれ荊州・江南から北進し、

中原の覇者となった。

がそれは支配と言うより相対的に有利な軍事力で相手を屈服させたに過ぎず、

支配ではない。

 

事実上、桓温存命の時代において、

桓温以前の歴史上北伐に成功したものはいないのである。

 

桓温の北伐は歴史への挑戦である。

保守的な東晋が確実に嫌う北伐。

新しいことを嫌うのが保守である。

 

そこに、思いっきりのいい桓温は手を挙げる。

 

 

●桓温得意の電撃戦。

 

桓温の軍事戦略の特徴は、とにかく脇目もふらず、

敵本拠地へ一気呵成に攻め込むことだ。

敵国内が元々乱れていれば、それだけで瓦解する。

桓温は成漢攻略でこの戦略の旨味を知っていた。

 

桓温は、荊州と益州からの両面から攻撃を仕掛ける。

354年2月のことである。

桓温本隊は、藍田へと侵攻する。

ここは、

戦国時代楚の懐王が秦の張儀に騙され、

その報復として楚の懐王が戦いを仕掛け、

無残にも負けた、藍田の戦いが起きた場所である。

長安近郊にあるのが藍田である。

 

桓温は、荊州襄陽から漢水を遡り、

そこから北西へ向かい、

武関経由で関中に入る。

武関経由での関中入りは劉邦と同様である。

 f:id:kazutom925:20180113105221j:image

※引用:中国歴史地図集:地図の領域図は366年時点。

 

●司馬勲という異形の存在が秦嶺山脈越え。

 

漢中からは梁州刺史司馬勲が子午道経由で長安を突く。

漢中から長安へのルートは5つあるが、

その中で、最も直接的に長安を攻撃するのが子午道である。

子午道を選択しただけでも、桓温が電撃戦を狙っていたことがわかる。

 

子午道はその関中への入り口を敵に塞がれたら、にっちもさっちもいかない。

しかしそこは荊州から桓温自身が本隊を速攻で進軍するという決意があった。

 

とにかく早期決戦。

 

これが桓温の戦略であった。

 

・司馬勲とは

 

司馬勲は、宗族の一人であるが、非常に変わり種の経歴である。

永嘉の乱の最中、西晋最後の皇帝愍帝が劉曜に囚われるが、

これとともに10歳の司馬勲も捕虜となった。

愍帝は後に処刑されるが、

司馬勲はのちの前趙皇帝劉曜に育てられた。

匈奴の英傑劉曜の薫陶を受けたためか、

司馬勲はどちらの手でも弓を射ることができるようになるなど、

武芸に優れた。

 

当然騎馬もできたわけである。

しかし、劉曜は328年の石勒との洛陽決戦で敗れ滅ぶ。

331年に司馬勲は石勒のもとを抜け出し、江南の東晋に亡命したというわけである。

帰還と言うべきかもしれない。

 

劉曜から受けた薫陶は武芸だけではなく、匈奴を始めとした異民族の流儀、

弱肉強食の文化も吸収していた。

宗族の中でも非常に異端な司馬勲。しかしこのアクが強いからこそ、

軍事上は役に立つのである。


桓温はこの司馬勲という毒を飲み、自身に活かそうとした。

このぐらいアクの強い人物ではないと、桓温の北伐に協力など

しなかったとも言える。

 

●桓温自身は武関経由で関中へ侵入。

 

桓温軍4万はうまく関中に侵入、

前秦サイドは迎撃するも、子午道経由で司馬勲が裏を突こうとするので、

兵力を集中できない。

 

結果、藍田において、桓温軍4万と、

前秦天王の太子苻萇の5万の軍勢が激突。

354年4月のことである。

桓温軍は勇戦し、苻萇軍を撃破。

長安城を目の前とした覇上に進駐。

ここから包囲に掛かるが兵糧が不足する。

桓温は現地で麦を刈り取り調達するつもりだったが、

前秦が刈り取ってしまい、調達ができない。

 

民からの徴発も可能だったが、桓温が民を慰撫したエピソードが残るので、

それはしなかったようだ。

 

前秦は賢くも城を固く閉じ、城内に逼塞した。

桓温には打つ手がなく、早々に撤退。

354年6月には襄陽に帰還しているので、

長安城を目の前にしてから1か月足らずで撤退したことになる。

 

●英雄桓温の誕生は、桓温の真摯さか、狡猾さか。

 

これを桓温が見切りがよいというか。

それとも、これは北伐をそれなりに成功したので、

名声を得るためにこの辺で撤退したと見るか。

 

この辺は判断が難しいところだが、

私は桓温の見切りの良さだと考えている。

 

桓温は結果的に軍事的名声で実権を握る。

それこそが桓温のこの関中侵攻の目的と考える人もいる。

しかし、私が見る桓温は、

そこまでせこい人物ではないと考えている。

私も当初は桓温に対して、狡猾な印象を抱いていた。

しかし、

特に第三次北伐は確実に前燕滅亡を狙ったものだった。

これに失敗したことで桓温は深刻に焦っている。

 

この辺りの事情を鑑みると、

この桓温という人物の、

見切りの良さ、すっぱりとした判断力が、凡人の我々に

何かずる賢さを感じる。

 

しかしむしろ桓温に勝負強さを感じると考えると、

この辺りはギャンブルの見切りの良さと考えるのが妥当だと私は考える。

 

さて、桓温が漢民族の歴史的古都長安まで攻め込んだというのは、

停滞感の漂っていた東晋に取って、輝かしい功績となった。

特に軍事的劣勢をひしひしと感じていた民草を大いに励ますこととなった。

 

英雄桓温の誕生である。

 

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