- ●慕容廆の治世の長さは鮮卑慕容部の安定をもたらす。
- ●慕容廆の基本戦略は、西晋・東晋への従属で勝ち残る。
- ●慕容廆が後を継ぐと、庶兄慕容吐谷渾は青海へ去る。
- ●慕容廆、王浚・石勒らの攻撃をはねのけ、遼東で自立する。
- ●慕容廆と姚弋仲は親中華の点で酷似している。
- ●現実的に歴史的に遼東では裏切り者だった鮮卑慕容部
慕容廆(ボヨウカイ)治世について説明したい。
●慕容廆の治世の長さは鮮卑慕容部の安定をもたらす。
鮮卑慕容部中興の祖である。
269年生まれ、285年に鮮卑慕容部の大人(部族長)となる。
没年は333年。
慕容部を統率する期間は、48年に渡る。
その期間は、
八王の乱、永嘉の乱、その後匈奴漢、石勒の華北席巻という
激動の時代と重なる。
君主の統治期間の長さは
そのまま国家に安定をもたらすケースも多い。
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この中華大乱を収めたのは石勒であるが、
その石勒が没したのが333年。
慕容廆の没年も333年である。
●慕容廆の基本戦略は、西晋・東晋への従属で勝ち残る。
慕容廆の基本戦略は西晋・東晋の冊封を受けることであった。
「藩」となった。
「藩」とは、簡単に言えば、垣根のことである。
まがきといって竹とかで作る、敷地を囲うための囲いである。
西晋・東晋ともに、幽州から遼西・遼東にかけてのエリアを押さえきれていなかった。
一方、鮮卑慕容部は、周辺の、宇文部、段部、高句麗などに対して劣勢であった。
そのため、
西晋・東晋に従属し、戦いを続けた。
これは慕容廆の父慕容渉帰からの方針であった。
異なるのが、慕容渉帰は西晋に対して従属背反を繰り返したが、
慕容廆は西晋・東晋への従属を維持したことである。
八王の乱から永嘉の乱が進行する中、
西晋の華北勢力は次々と倒れていく。
華北で西晋・東晋側として抗戦していた劉琨が段部に殺されてからは、
唯一の在華北の西晋・東晋勢力としての慕容部の存在感が増していく。
鮮卑段部は、後趙石勒に追いやられ、
匈奴宇文部は慕容廆が打ち滅ぼした。
最後まで西晋・東晋サイドに立って、
遼東において地保を固めたのが慕容廆であった。
※「宇文部について」
宇文部は匈奴が鮮卑化したので、
鮮卑宇文部とも言われる。ただ、私は匈奴宇文部と呼びたい。
そんなことを言っていたら、何が鮮卑で何が匈奴なのか、
わからなくなってしまうからだ。
そんなことを言ってしまうと、
誰が氐族で誰が羌族なのかなど判断もできなくなる。
宇文部は匈奴由来なので、匈奴宇文部とする。
なお、南北朝の後周の祖、宇文泰はこの部族の出身と言われている。
だが、これは怪しい。なぜなら、南北朝において、
鮮卑族は改名や新たに名前をつけるなどを頻繁に行っており、
南北朝末期では、その血筋の由来をたどることは難しくなっていた。
宇文泰のこの出自は怪しく、ただの辺境の末端の鮮卑族であっただろう。
●慕容廆が後を継ぐと、庶兄慕容吐谷渾は青海へ去る。
ここからは慕容廆の事績について時系列に記したい。
青海は現在の青海省。
当時は中華の外で、いわば化外の地。
中華ではなく、チベットの領域であった。
慕容廆が鮮卑慕容部の大人となったのは16歳の285年。
慕容吐谷渾は245年の生まれで既に40歳であった。
親子のような年齢差であった。
父慕容渉帰は慕容吐谷渾にも民を与え、一つの部族として引率させたが、
慕容廆の集団と近かったためか、家畜の取り合いでもめた。
慕容吐谷渾は、これを嫌い。
西へ去ったのである。
弱肉強食が当たり前の異民族でこれは珍しい事例である。
本来であれば、戦うところを慕容吐谷渾は西へ去った。
民を率いて青海に到達、そこで遊牧生活を送る。
慕容吐谷渾は317年に死去。
こうして「吐谷渾」という国家がぼんやりと生まれる。
子孫が先祖の名を取って吐谷渾と名乗る。
この吐谷渾は663年に吐蕃の攻撃を受け滅びるまで約350年間存続する。
話は逸れたが、慕容吐谷渾が去ることで、
逆に鮮卑慕容部本体は、慕容廆の下、うまくまとまったと言える。
●慕容廆、王浚・石勒らの攻撃をはねのけ、遼東で自立する。
はじめこそ西晋の言うことを聞かず、宇文部などを攻撃したが、
基本的には西晋・東晋との通交をベースに勢力伸長を成功させる。
西晋・東晋との通交を基本としたからこそ、西晋・東晋の争乱の影響を真っ向受ける。
・第一の敵、王浚
まずは、王浚の台頭である。
八王の乱の結果、
幽州は王浚が支配するところとなった。
王浚は、
太原王氏で西晋建国の元勲、西晋初代録尚書事の王沈の庶子。
名族貴族でありながら、西晋末期の頽廃した文化の影響を受けてか、
独立した動きを見せる。西晋からの離反を指す。
王浚は、鮮卑段部、匈奴宇文部と婚姻関係を結び、
幽州で事実上の独立政権を作る。
八王の乱の趨勢に関して、
キャスティングボードを握ったほどの王浚。
鮮卑慕容部は、西晋・東晋側に立ち、
鮮卑段部・匈奴宇文部とは仇敵の関係である。
王浚の台頭は、鮮卑慕容部が劣勢に立たれることを意味した。
異民族のパターンは、繰り返しになるが、
弱肉強食である。
義理人情は関係がない。
劣勢になった鮮卑慕容部は王浚に寝返って当然だが、
慕容廆は西晋・東晋サイドに引き続き立った。
圧倒的に劣勢な中、
慕容廆は何とか耐え凌ぐ。
・第二の敵、石勒
そうこうしている間に、南から石勒が侵攻。
王浚は314年に石勒の奇襲で殺され、
鮮卑段部は王浚死去の後、分裂、一方の勢力が321年に石勒により滅ぼされる。
323年に慕容廆は宇文部に対して攻勢を仕掛け、本拠地を奪う。
こうして、慕容廆の鮮卑慕容部は遼東・遼西において勢力を伸ばした。
323年石勒は鮮卑慕容部と同盟を結ぼうと使者を遣わすも、
慕容廆は拒絶。使者を捕らえて、東晋帝都の建康に送るほどの徹底振りである。
これで、
石勒と完全な敵対関係に入る。
石勒は宇文部を使って慕容部を攻撃しようとするも、果たせず。
慕容廆は勢力を保った。
333年、慕容廆は死去。65歳であった。
奇しくも同年石勒も死去する。
●慕容廆と姚弋仲は親中華の点で酷似している。
慕容廆は上記のように、
基本的に西晋・東晋に従属して勢力を伸ばした。
なぜここまで西晋・東晋との通交を重視したのかは定かではない。
しかし一つ言えるのは、
慕容廆は269年生まれで、
西晋の絶世期に幼年期を過ごしたということがある。
当時は西晋武帝司馬炎の治世で、
西晋は絶頂期にあった。
西晋は名族社会であり、同時に漢民族優越主義であった。
異民族への差別意識が強くなっていた時代であり、
その最中に慕容廆は幼年期を過ごしていた。
異民族でありながら、異民族を蔑視するような感覚があるのだ。
そのために石勒との同盟を拒否した。
実は慕容廆に近いタイプの人間がいる。
慕容廆より10歳年下の279年生まれでやはり、
西晋の絶頂期に幼年期を過ごした後の異民族族長。
羌族の姚弋仲である。
姚弋仲は、自身の死の間際、子の姚襄に、
東晋に帰属するようにと遺言している。
その際、中華世界において、異民族出身者で帝王となったものはいないと
言っている。
もしこの言葉が本当であれば、
姚弋仲は、
劉曜、石勒、石虎といった皇帝となった異民族出身者に仕えながらも、
一人として皇帝として、天子として認めていないことになる。
慕容廆も姚弋仲と同様、
異民族でありながらも漢民族が優越し、
漢民族にしか中華、つまりこの世に君臨できないと
信じていたのだと私は考えている。
漢文化の教養を備えたからこそであるが、
それで中華王朝、西晋・東晋への従属方針を
断固として貫いたのだ。
●現実的に歴史的に遼東では裏切り者だった鮮卑慕容部
局地的には鮮卑慕容部は、鮮卑段部・匈奴宇文部との対立関係があり、
王浚、石勒はこれらと手を組んだ。
鮮卑慕容部が力を持ち始めたのは、三国魏の遼東遠征からである。
異民族なのに、異民族討伐に来た魏に鮮卑慕容部は手助けをした。
ここから鮮卑慕容部は、遼東において、
裏切り者扱いであった。
これが結果的に西晋・東晋との関係を
継続させることになったのではないかと思われる。
中華王朝が力を持てば、鮮卑慕容部は安泰であったが、
中華王朝が衰退すれば、鮮卑慕容部は周辺勢力から袋叩きにされる
立場であったのである。
西晋・東晋に義理立てるというよりは、孤立した鮮卑慕容部が生き残るための
唯一の方策と言える。
しかしながら、そういった四面楚歌の状況を、
乗り越えた、それが鮮卑慕容部である。