後世の評価が低い慕容評。
これは事実ではない。
当時の歴史は、
東晋中心に描かれ、そしてその東晋に立ち向かった
苻堅を異民族の中ではピックアップする。
なぜならそれの方が東晋の立ち位置が際立つからだ。
倒す敵は強い方がいい。
淝水の戦いで東晋に敗れた苻堅はいい咬ませ犬というわけだ。
その苻堅に付いた異民族は基本的に良く描かれる。
その代表例が慕容垂である。
慕容垂が苻堅に寝返るきっかけを作った慕容評は、
悪く描かれる。慕容評が悪かったから慕容垂はより徳のある
苻堅の元へ行ったのだ、と。
●慕容恪をサポートする慕容評
前燕末年、慕容評は、
桓温北伐を撃退した慕容垂と対立。
結果、慕容垂は前秦に亡命し、
これを機に前燕は滅亡への道をたどることになった。
この事実により慕容評は歴史上、悪名高い人物である。
奸臣の一人である。
しかしながら、まず確実に言えるのは、
慕容儁の後継、石虎の死による華北大混乱という絶好の機会に、
うまくスタートダッシュができたのは、
慕容評が慕容儁を支えたからである。
それというのも、
349年の石虎死後の華北大混乱において、
慕容評は前燕のメインとして
後趙や冉魏を侵略しているのだ。
慕容恪というなんとも英雄めいた人物の陰に隠れているが、
実は冉魏の本拠、鄴を陥落させたのは慕容評なのである。
慕容恪は中山進駐や冉閔との決戦には出陣しているが、
それ以外は兄で燕王のちに皇帝慕容儁を帝都で輔弼している。
(前燕の本拠は350年までは龍城、以後は薊、357年からは鄴である。)
中央にあって執政なのが慕容恪、
外にあって外征を行なっているのが慕容評なのである。
●慕容恪・慕容評ラインこそが前燕の成功要因。
この慕容恪、慕容評のコンビがうまくいっているからこそ、
前燕は領土の急速な拡大に成功したのである。
慕容評が前燕滅亡の原因を作ったという定説に惑わされてはいけない。
慕容恪、慕容評のコンビは、
兄であり、甥である慕容儁が360年に41歳の若さで死んだ後も、
続いた。
慕容暐(ぼようい)が若干10歳で後を継いでも、
慕容恪も慕容評も乱を起こすことはなかった。
この慕容恪・慕容評ラインは、
慕容恪が367年に死去するまで続くのである。
このラインは慕容儁が348年に燕王を継いだ時に始まり、
その後19年間続いたのである。
慕容儁が死去した後も、
この慕容恪・慕容評の両名が前燕を盛り立てたのである。
これこそが慕容儁政権の成功要因であった。
●慕容評単独では前燕をまとめきれなかった。
しかし、慕容恪が死に、慕容評が一人で前燕を背負うと、
前燕をまとめきれなくなる。
前燕内部が内部闘争をし始める。
前燕は持ち前の戦闘力の高さを活かして、
領土を拡大していたが、戦線が大きく拡大しすぎて、
限界を迎えていた。
内部で不満が沸き起こる中、
慕容恪が何とかまとめていたが、
その慕容恪が死ぬ。
後を、慕容恪のパートナー慕容評が継ぐも、
慕容評には政治調整能力がない。
しかし、このまま戦線を拡大し続けることに対して、
限界を慕容評は感じていた。
腰が引け気味になる慕容評に対して、
強硬路線を主張するのが、
慕容垂である。
●慕容垂の強硬路線を抑え込めなかった慕容評。
慕容垂は、慕容儁、慕容恪の弟である。
慕容恪同様、庶子であり、母は匈奴の出身だったようだ。
同じ庶子として、慕容恪に慕容垂は可愛がられた。
また、
慕容垂はその武勇を慕容恪に愛された。
実際に軍事に秀でていて、南方戦線を任されるなど、
慕容恪から信頼されている。
慕容垂の封爵は、呉王であり、
これは呉、すなわち東晋の割拠する
江南の攻略を一任されていることを意味する。
慕容垂は南へ侵攻したかった。
しかし慕容評は戦線を維持するためにはここで足を止めなくてはならなかった。
ここで、
穏健派慕容評と急進派慕容垂という対立軸が出来てしまう。
両者を調和させることができる慕容恪は既に世になかった。
そこを桓温に突かれたのである。
鄴から遼東へ撤退することさえも検討したが、
慕容儁・慕容恪の弟で慕容評の甥、慕容垂が桓温を撃退。
慕容垂としては、
東晋の桓温は自分の獲物だ、ぐらいの感覚だろう。
事実上の独断での出兵だった。
この慕容垂の桓温に対する大勝が、
慕容評と慕容垂のパワーバランスを狂わせる。
慕容評の下に、慕容垂、だったのが、
この勝利で慕容垂が慕容評と対等になってしまった。
慕容評は桓温の撃退は無理だと主張したのに、
慕容垂は撃退してしまったのである。
著しく名声を失った慕容評一人では前燕はまとめきれず、
甥慕容垂の前秦亡命をきっかけに前燕は滅亡する。