歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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慕容評の歴史的評価に対する問題提起

前燕は慕容儁の時代に大きく勢力を伸ばした。

慕容評はこれに大きく貢献したのだが、

歴史の中から消されてしまう。

 

なぜなのか。

 

●慕容評の存在は前燕にとって大きい。

 

 

360年に慕容儁は41歳で死去する。

疫病だったようだ。

 

しかしその後も前燕の勢いは止まらず、

367年まで続く。この年に何があったか。

それは慕容恪の死である。

 

これにより前燕はバランスを崩し、一挙に崩壊の道を

辿った。

慕容恪の存在は前燕にとって非常に大きなものだったが、

実は彼一人で前燕は伸長できたわけではない。

 

実は、

慕容恪自身に優れたサポート役がいた。

 

それが慕容評である。

 

慕容儁が前燕を継いでから、慕容恪ー慕容評ラインというのが

一貫して続く。367年まで。

19年間続いた。

 

これは前燕破竹の勢いと全く重なる。

内を慕容恪が固め、外を慕容評が受け持つ。

このコンビネーションで、

前燕は勢力を伸張させたのである。

 

●後の「奸臣」慕容評は兄慕容皝、甥慕容儁に非常に信頼された。

 

慕容評は兄慕容皝に対して、

兄たちが反乱をするも、

同調しなかった。

どうも兄慕容皝が後を継いだ時には幼年だったようだ。

 

 

慕容評は慕容恪と同年代、もしくは年下だったかもしれない。

歴史書上の登場は、実は慕容恪の方が先である。

 

慕容評は339年に初登場。

叔父甥であっても、叔父の方が年下といいことはあり得る。

 

例:荀彧と荀攸

 

慕容儁政権において、

主に南下の最先端で戦っているのは、

実は慕容評。

 

前燕末年、桓温の北伐を撃退した慕容垂を排除したと言われる

慕容評なので、軟弱なのではないかという印象すら抱かせるが、

実は前燕領土拡張の先鋒であった。

 

慕容恪は帝都にあって執政していた。

慕容儁が後継となった際、

No.2は慕容恪。

 

これは慕容恪の非凡さを見抜いた慕容皝が

嫡子慕容儁に慕容恪を活用するよう遺言したためでもある。

 

その次は、

慕容評である。

慕容評は慕容儁にとって叔父である。

父慕容皝の弟である。

 

異民族のお決まりとしては、

この立場にある人は大概が反乱するか反乱しようとしていた。

慕容皝が後継となった時に

慕容評は兄慕容皝に反乱をしなかったが、

甥が後を継ぐタイミングで反乱を起こすことはよくある。

 

慕容皝、慕容評両人の大叔父慕容耐が乱を起こしたように。

警戒されても当然な慕容評は、

慕容儁が後を継ぐタイミングでも厚遇されている。

慕容恪の登用は、慕容儁の父慕容皝の意見もあったわけなので、

この慕容評の登用も慕容皝の意見が反映されている。

 

つまり慕容評は兄慕容皝に最後まで信頼されていたということになる。

 

●慕容評が「奸臣」扱いされる理由



後に後燕を建国する甥の慕容垂と対立。

結果慕容垂は前秦に亡命。

これが決定的となり、前燕は前秦の侵攻を受け滅亡する。

 

こうした経緯のため、慕容評はとにかく評判が悪い。

奸臣として描かれる。

一方、

祖国で出身部族が建国した前燕を捨てた慕容垂は、

英傑としてポジティブにとらえられる。

 

やはり中華に根差す王朝を創ったからか、

いくら異民族とはいえ、皇帝になったからには、比較的前向きにとらえられるのだろうか。

 

しかし、道義的に見て、祖国で出身部族を裏切った慕容垂を

言われているようにすんなりと評価をするわけにはいかない。

 

慕容垂が裏切ったからこそ、前燕は滅びたのだ。

それを慕容評だけのせいにするというのは

何らかの情報操作があったと疑うべきである。

 

●果たして慕容評は奸臣だったのか。

 

慕容評は前燕が滅びると前秦に囚われの身となった。

が、苻堅は慕容評を殺さず、范陽太守とした。

 

范陽は劉備の故郷涿であり幽州である。

鮮卑慕容部の故郷遼東に比較的近い中華の地で、

幽州・薊(いまの北京)の戦略的重要性が高まる、

この五胡十六国時代にあっては、

悪い処遇ではないのである。

慕容垂の再三にわたる慕容評処刑要請を苻堅は裁可しなかった。

それはなぜなのか。

 

果たして本当に慕容評は奸臣であったのか。