歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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慕容評より問題なのは慕容垂だ。

 

慕容評の実態について、

以下に四点に集約する。

 

これが実態である。

 

●慕容評の4つの事実

 

①兄慕容皝の乱には参加していない

幼年だった可能性がある。

 

慕容皝はその死にあたり、

子の慕容儁に、庶子慕容恪を第一の臣下、弟慕容評を第二の臣下として

扱うよう遺言。

 

②慕容評は最後まで兄慕容皝に信頼された。

宗族争いは異民族のお家芸だが、

鮮卑慕容部ほど毎回繰り返される部族も少ない。

 

叔父甥、兄弟間の争いは特に激しいが、

慕容評は最後まで兄慕容皝に信頼された。

 

③慕容評は常に最前線

 

慕容儁および慕容暐の時代に

鮮卑慕容部前燕は領土を急拡大させたが、

慕容評は常にその最前線にいた。

 

軍事能力を評価されているととともに、

信頼をされている証拠である。

 

大軍勢を持って辺境にいれば、

反乱も敵国への寝返りも容易だからである。

 

④常に甥の慕容儁、慕容恪を立てて、自らを律した。

 

叔父甥の関係であるが、

慕容評は別系統の部族を率いる身である。

ある種独立した集団と言っていい。

そのため、異民族間では宗族同士の争いが起きやすいのだが、

慕容評は甥たちを常に盛り立てた。

 

慕容儁は異民族の王者として、鮮卑慕容部の完全従属を求める。

これは当然のことであった。

異民族らしい王者であった。

 

慕容評はこれに従順だったのである。

 

上記4つの事実。

これらからわかるのは、慕容評は鮮卑慕容部という部族に

忠誠を誓っていたことである。

 

●慕容儁の、慕容評の扱いと大きな差がある慕容垂いじめ

 

その中で慕容儁は特に慕容垂に対する当たりは強いエピソードが残されている。

 

慕容垂は母が匈奴である可能性が高い。

征服した別部族の子だからか、

慕容垂が落馬して歯が欠けたら、

「𡙇」と改名される。

「𡙇」は「缺」と同字で、これは現代の常用漢字でいうと「欠」である。

(なお慕容垂は後に「𡙇」のつくりの部分を削除して、慕容垂と改名する。

つまり慕容垂は兄の仕打ちが嫌だったわけだ。)

 

露骨なイジメである。

だが、この扱いこそが異民族同士の関係性だ。

 

決して寛容な族長ではない慕容儁に

つき従えたのが、慕容評だ。

 

●従順な慕容評、その存在の特異性。

 

慕容恪は母が漢人で漢文化に対する造詣も深かった。

長幼の序という感覚がある。

儒教的な観点で兄慕容儁に従えただろう。

だからこそ慕容恪は後世に名を轟かせる存在になり得たのだが、

慕容評は慕容恪のように漢人のルーツは持たない。

 

にもかかわらず、

慕容評は甥たちに慎み深く接した。

 

慕容儁、慕容恪の指示通りに、

ほぼ私有の自分の部族を使って、外征を続けるというのは、

我々が思うほど単純ではない。

身内を説得し続けるのも大変であるし、

中央である甥の慕容儁、慕容恪の意向を最大限沿うという

のは並大抵の苦労ではない。

そして、慕容吐谷渾のように部族ごとの出奔や、

慕容翰のように完全な敵対勢力への寝返りすらある、

この鮮卑慕容部の歴史の中で、慕容評は実は少々特殊なのである。

 

しかし、これができたのである。

 

これは慕容評の性格なのか、

それとも慕容恪のように母が漢人だったのか。

それとも漢人コミュニティに近い場所で育ったのか。

 

慕容評の母は、残念ながら不明である。

漢人文化への造詣が深く、

異民族としての勇猛さを持った慕容恪と、

慕容評は相性が良かったようなので、

もしかしたら何らかの形で、漢人文化への接点があったのかもしれない。

 

私は慕容評は漢人文化への教養が

慕容恪との協調を産んだ可能性が高いと考えている。

 

こう考えると、

慕容評が前燕末期に慕容垂と対立した理由も

わかるからである。

 

●慕容垂は悪人である。

 

慕容評は、歴史上慕容垂擁護という視点があることで、

結局奸臣にさせられてしまったのであるが、

そもそも何故慕容評と慕容垂は対立したのか。

 

それは桓温の第三次北伐が原因である。

 

桓温の第三次北伐は、

第一次、第二次と比較して、本格的なものだった。

 

桓温は大規模な土断※を成功させ、満を持して

大規模な軍事活動を369年に行った。

※364年に桓温は土断法を実施。民を戸籍に入れ国力を増大した。

 

これに対して、

慕容垂は徹底抗戦を主張。

慕容評は後方撤退、前秦への援軍要求を主張。

 

結局国内がまとまらないまま、

桓温は黄河河畔まで侵攻。

桓温の軍勢はとにかくスピードが早い。

 

慕容垂は反対を押し切って、

桓温の迎撃に出て、桓温を撃退する、という流れである。

 

 しかしながら、

これはこれで良かったのだろうが、

前燕内のパワーバランスがこれで完全に崩れてしまった。

 

元々慕容恪の死後、

国内がまとまりを欠いていた前燕。

 

慕容恪は異民族、漢民族の両方に配慮をしながら、

統治が出来たが、慕容評は出来なかった。

 

367年に慕容恪が死んでからは、

その慕容恪を長らく支えた慕容評が後を継いで執政になるのは

当然の流れだが、

慕容評は軍事畑の人間である。

 

政治的な調整能力はない。

 

こうしてまとまりを欠いた中、

慕容恪を継いで軍事のトップになった慕容垂が、

異民族らしく徹底抗戦を主張する。

 

本来ならば、

外交的に孤立し対外侵略ばかりをしてきた

前燕はこの辺りで一旦手打ちをする必要があった。

 

慕容垂の軍事能力は亡き慕容恪も認めていたが、

ここで勝ってしまったことで収拾がつかなくなってしまった。

 

もっとも大きいのは、

洛陽の割譲を見返りに前秦苻堅の援軍を依頼しながら、

その援軍が着く前に慕容垂が桓温を打ち破ってしまったことだ。

 

前秦苻堅としては洛陽の割譲を求めてくる。

 

結局慕容垂の行動は独断専行だったわけで、

これにより、慕容評と慕容垂は決裂。

 

桓温を打ち破ったのが369年9月、

11月に慕容垂は、前秦に亡命。

 

それとともに前秦は洛陽の割譲を受けるという名目で、

軍をうごかす。

そのまま前燕を滅ぼすというわけだ。

 

私は本来は慕容評が桓温北伐のタイミングでなんらかの

外交上の手打ちを行おうとしていたのではないかと考える。

旧本拠龍城まで撤退を考えていたのだから、

その可能性はある。本拠を後方に移して、

領土割譲で講和を桓温に要請する。前秦に洛陽割譲を言い出せたのだから、

そのぐらいの覚悟はある。

 

しかしそれを台無しにしたのが慕容垂である。

 

慕容垂はとにかく異民族気質で自分が勝つことにしか関心がないのである。

 

●慕容評と慕容垂、どちらが奸臣か。

 

慕容儁、慕容恪を支えて、

常に最前線で前燕の領土拡張のために戦った慕容評。

慕容儁、慕容恪亡き後は、慕容儁の子慕容暐を

奉じて、前燕の延命を図った慕容評。

 

それに対して、

ただ戦うことだけをしてきた慕容垂は自身の力に奢り、

桓温を排除したのち慕容評と対立して決裂。

前秦に投降し、今度は敵国前秦の尖兵として、

祖国前燕を滅ぼす。

 

国を売ったという点では慕容垂が奸臣だ。

しかし、それは異民族気質であるに過ぎない。

 

これを漢人気質の慕容評が抑えきれなかった、

これが結論である。