桓温の第二次北伐の実行。
桓温は、354年の前半に第一次北伐を実行。
前秦の本拠長安まで攻め入るも、兵糧が現地調達できず。
兵站は伸び兵糧が足りなくなったので、早々に撤退する。
●桓温対建康政府の対立。
前秦は元より華北の諸勢力にとっては、
大きな衝撃を与えたが、
桓温が感じたのは悔しさ以外の何物でもなかった。
桓温は東晋明帝の婿であり、
何もしなくとも本来は富貴の身でいられる。
保守的な東晋貴族社会は、桓温にも富貴の身で安穏としてほしいと
大半は思ったはずだ。
しかし桓温はそうしなかった。
父は蘇峻の乱で死去。忠臣の息子でもある。
それを桓温は庾氏三兄弟の遺志を継ぎ、
北伐への意欲を持った。
司馬昱ら建康で汲々としている人間達とつるめば、
自身の身を守れるはずだった桓温。
身の安定を顧みず、桓温は北伐推進を図った。
このために後世に悪評さえもあるが、
桓温は東晋明帝の婿で、
本来は司馬昱や貴族名族と協調すべき存在であったことを
忘れてはいけない。
正直なところ、このように言う私も忘れてしまうぐらいの
建康対桓温の対立軸の存在である。
歴史はこれを隠している。
しかしこれを認識しないと、桓温の行動の真意が理解できない。
●東晋政府から反対された桓温の第二次北伐
356年2月
桓温は複数回上奏する。
洛陽に行って西晋皇帝の陵墓を修復したいと。
つまり、洛陽はこの時東晋の支配下にないわけなので、
洛陽を取り戻したいと言っているわけである。
朝廷はこれを認めなかった。
しかしながら、
当時許昌に移動していた姚襄の討伐は認め、
桓温を
征討大都督、都督司・冀二州諸軍事に任命する。
建康政府は桓温の洛陽侵攻を許さなかったが、
姚襄討伐は認めたことになる。
司州、すなわち、洛陽周辺、
冀州、すなわち、河北の中部で幽州の南、
の軍権を与えた。
この当時、両エリアとも東晋の支配下ではないので、
つまり、今桓温が持っている荊州、蜀の軍権を使って回復せよと言っていることになる。
敵地の軍権を回復する、
つまり侵略に成功(東晋としては失地回復だが)することはないと踏んだか。
●前燕鮮卑慕容部はライバルの青州段部に付きっ切り
前燕は桓温第二次北伐前夜、幽州から冀州、そして鄴まで
その領域を広げていた。
355年10月、
陳郡謝氏の一族謝尚を寿春に出鎮。
前燕の動きを牽制する姿勢を見せる。
大分遠いが、長江北岸に拠点を置いたことは東晋にとっては、
大きな意義を持つのであろう。
一方、青州は段部が占拠していた。
青州を事実上支配していた鮮卑段部の残党は、
東晋の冊封を受け形としては従属していた。
だが、
この段部の頭領段龕(ダンガン。段部の祖・段日陸眷の曾孫)が
前燕慕容儁が皇帝を称していたことを、
批判し、慕容儁側が激怒。
355年11月に、
慕容儁は庶弟慕容恪に青州の段部を攻めさせる。
段部の抗戦は手強く、
流石の慕容恪も手こずる。
356年2月の段階では、
慕容恪は青州本拠の廣固に籠った段部を滅せず、青州の他エリアを切り取る
ことに専念する。この状況は356年いっぱいかかる。
こうして、前燕が青州段部に仕掛かっている状況で、
桓温は洛陽に攻め入ることになる。
●前秦は皇帝苻生の暴政により混乱中。
前秦は関中を支配していた。
前秦は354年に桓温の北伐を受け、
ギリギリのところで撃退した。
その後、皇帝となった苻生は、
異民族の弱肉強食主義丸出しの暴君であり、
前秦はまとまっていなかった。
357年、内乱により苻生は弑逆され、
苻堅が後を継ぐ。
これでようやく前秦はまとまるが、
それまでは積極的に対外遠征に出るような
内部事情ではなかった。
●姚襄と桓温の洛陽伊水決戦。
356年3月の段階で、
姚襄は許昌に移動しその周辺を掌握、
その勢いで洛陽を狙っていた。
356年5月、
姚襄は後趙の残党が籠っていた洛陽へ自ら出兵。
6月には洛陽を囲む。
桓温は356年7月に江陵を出発。
淮水方面からも、許昌、洛陽を攻めるよう上奏する。
356年8月桓温は洛陽の南にある伊水に到達。
姚襄は東晋桓温軍に気づき、
洛陽包囲から桓温迎撃に切り替える、
伊水を挟んで北に姚襄、
南に桓温という形で対峙。
姚襄25歳、
桓温44歳の戦いである。
桓温は自身も戦陣に立って督戦。
姚襄は羌族を中心に多数の民を抱えながらの戦いであったものの、
善戦。
桓温の北伐への思い入れ、
この北伐軍の士気の高さについては、
これまでにも繰り返し述べてきたが、
姚襄も負けていない。
姚襄は後趙の重鎮で羌族のトップ父姚弋仲の後継者として、
5万戸の民を連れ、
中華を彷徨っていた。
変えるべき関中は氐族苻氏に取られ、
ここ中原で本拠を構えるほかなかった姚襄。
一旦は父姚弋仲の遺言に従って
東晋に降ったものの、
手酷い扱いに憤慨し、東晋から離反していた。
この時点では前燕に附属していたが、実態は
事実上の独立勢力である。
お互いに負けられない戦いで
激戦となったが、
姚襄軍の方が洛陽の包囲もあって疲弊していたか、
桓温軍に押され、退却する。
この撤退の際には、
姚襄に従っていた民、女子供が置き去りにされ、
喚き嘆いたとされる。
姚弋仲以来の徳と姚襄自身の人柄が
物を言うのだろう。
この乱世において相当な信望である。
それが異民族とされる羌族の首領姚襄だから
まさに皮肉である。
桓温は姚襄を追撃するも逃げられる。
姚襄は西方に逃げた。
最終的には并州は平陽に逃げ込む。
桓温は洛陽を包囲。
洛陽に籠るは後趙の残党。
姚襄が桓温と戦う前から攻め立てていたため、
桓温が洛陽を攻めると早々に陥落する。