歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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東晋北伐⑯絶好のチャンス、桓温第二次北伐洛陽攻撃

桓温の第二次北伐の実行。

 

 

桓温は、354年の前半に第一次北伐を実行。

前秦の本拠長安まで攻め入るも、兵糧が現地調達できず。

兵站は伸び兵糧が足りなくなったので、早々に撤退する。

 

 

●桓温対建康政府の対立。

 

 

前秦は元より華北の諸勢力にとっては、

大きな衝撃を与えたが、

桓温が感じたのは悔しさ以外の何物でもなかった。

 

桓温は東晋明帝の婿であり、

何もしなくとも本来は富貴の身でいられる。

保守的な東晋貴族社会は、桓温にも富貴の身で安穏としてほしいと

大半は思ったはずだ。

 

 

しかし桓温はそうしなかった。

 

 

父は蘇峻の乱で死去。忠臣の息子でもある。

それを桓温は庾氏三兄弟の遺志を継ぎ、

北伐への意欲を持った。

 

司馬昱ら建康で汲々としている人間達とつるめば、

自身の身を守れるはずだった桓温。

 

身の安定を顧みず、桓温は北伐推進を図った。

このために後世に悪評さえもあるが、

桓温は東晋明帝の婿で、

本来は司馬昱や貴族名族と協調すべき存在であったことを

忘れてはいけない。

 

正直なところ、このように言う私も忘れてしまうぐらいの

建康対桓温の対立軸の存在である。

 

歴史はこれを隠している。

しかしこれを認識しないと、桓温の行動の真意が理解できない。

 

●東晋政府から反対された桓温の第二次北伐

 

356年2月

桓温は複数回上奏する。

 

洛陽に行って西晋皇帝の陵墓を修復したいと。

つまり、洛陽はこの時東晋の支配下にないわけなので、

洛陽を取り戻したいと言っているわけである。

朝廷はこれを認めなかった。

 

しかしながら、

当時許昌に移動していた姚襄の討伐は認め、

桓温を

征討大都督、都督司・冀二州諸軍事に任命する。

 

建康政府は桓温の洛陽侵攻を許さなかったが、

姚襄討伐は認めたことになる。

 

司州、すなわち、洛陽周辺、

冀州、すなわち、河北の中部で幽州の南、

の軍権を与えた。

 

この当時、両エリアとも東晋の支配下ではないので、

つまり、今桓温が持っている荊州、蜀の軍権を使って回復せよと言っていることになる。

敵地の軍権を回復する、

つまり侵略に成功(東晋としては失地回復だが)することはないと踏んだか。

 

●前燕鮮卑慕容部はライバルの青州段部に付きっ切り

 

前燕は桓温第二次北伐前夜、幽州から冀州、そして鄴まで

その領域を広げていた。

 

355年10月、

陳郡謝氏の一族謝尚を寿春に出鎮。

 

前燕の動きを牽制する姿勢を見せる。

大分遠いが、長江北岸に拠点を置いたことは東晋にとっては、

大きな意義を持つのであろう。

 

一方、青州は段部が占拠していた。

青州を事実上支配していた鮮卑段部の残党は、

東晋の冊封を受け形としては従属していた。

だが、

この段部の頭領段龕(ダンガン。段部の祖・段日陸眷の曾孫)が

前燕慕容儁が皇帝を称していたことを、

批判し、慕容儁側が激怒。

 

355年11月に、

慕容儁は庶弟慕容恪に青州の段部を攻めさせる。

段部の抗戦は手強く、

流石の慕容恪も手こずる。

 

356年2月の段階では、

慕容恪は青州本拠の廣固に籠った段部を滅せず、青州の他エリアを切り取る

ことに専念する。この状況は356年いっぱいかかる。

 

こうして、前燕が青州段部に仕掛かっている状況で、

桓温は洛陽に攻め入ることになる。

 

●前秦は皇帝苻生の暴政により混乱中。

 

前秦は関中を支配していた。

 

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前秦は354年に桓温の北伐を受け、

ギリギリのところで撃退した。

 

その後、皇帝となった苻生は、

異民族の弱肉強食主義丸出しの暴君であり、

前秦はまとまっていなかった。

 

357年、内乱により苻生は弑逆され、

苻堅が後を継ぐ。

 

これでようやく前秦はまとまるが、

それまでは積極的に対外遠征に出るような

内部事情ではなかった。

 

 


●姚襄と桓温の洛陽伊水決戦。

 

356年3月の段階で、

姚襄は許昌に移動しその周辺を掌握、

その勢いで洛陽を狙っていた。

356年5月、

姚襄は後趙の残党が籠っていた洛陽へ自ら出兵。

6月には洛陽を囲む。

桓温は356年7月に江陵を出発。

淮水方面からも、許昌、洛陽を攻めるよう上奏する。

356年8月桓温は洛陽の南にある伊水に到達。

姚襄は東晋桓温軍に気づき、

洛陽包囲から桓温迎撃に切り替える、

伊水を挟んで北に姚襄、

南に桓温という形で対峙。

 

姚襄25歳、

桓温44歳の戦いである。

 

桓温は自身も戦陣に立って督戦。

姚襄は羌族を中心に多数の民を抱えながらの戦いであったものの、

善戦。

 

桓温の北伐への思い入れ、

この北伐軍の士気の高さについては、

これまでにも繰り返し述べてきたが、

姚襄も負けていない。

 

姚襄は後趙の重鎮で羌族のトップ父姚弋仲の後継者として、

5万戸の民を連れ、

中華を彷徨っていた。

 

変えるべき関中は氐族苻氏に取られ、

ここ中原で本拠を構えるほかなかった姚襄。

一旦は父姚弋仲の遺言に従って

東晋に降ったものの、

手酷い扱いに憤慨し、東晋から離反していた。

 

この時点では前燕に附属していたが、実態は

事実上の独立勢力である。

 

お互いに負けられない戦いで

激戦となったが、

姚襄軍の方が洛陽の包囲もあって疲弊していたか、

桓温軍に押され、退却する。

 

この撤退の際には、

姚襄に従っていた民、女子供が置き去りにされ、

喚き嘆いたとされる。

 

姚弋仲以来の徳と姚襄自身の人柄が

物を言うのだろう。

この乱世において相当な信望である。

それが異民族とされる羌族の首領姚襄だから

まさに皮肉である。

 

 

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桓温は姚襄を追撃するも逃げられる。

姚襄は西方に逃げた。

最終的には并州は平陽に逃げ込む。

 

桓温は洛陽を包囲。

洛陽に籠るは後趙の残党。

 

姚襄が桓温と戦う前から攻め立てていたため、

桓温が洛陽を攻めると早々に陥落する。