●幽州は中華文明とは隔絶した土地
幽州という名前になったのは、
前漢武帝の時。
天下を13州に分けた時、
戦国時代の燕が割拠した地域を、幽州とした。
なぜ、前漢武帝がこのようなことをしたかと言うと、
前漢武帝の時代にようやく中華全土を掌握したからである。
父景帝末期に起きた呉楚七国の乱を勝ち抜き、
天下を掌握した。それをすぐに受け継いだのが前漢武帝である。
幽という字は諡号の位置付けから分かるように、
良い意味ではない。
ここ幽州は黄河の流れのため、
中華の中心である中原エリアから隔っていた。
ある種の島のような地域が幽州である。
北と西は険しい山に囲まれ、東は未開の地。
南は、黄河の流れに阻まれ、その周囲は不毛の地。
范陽(涿郡。現在の保定のあたり)から中山(今の石家荘)に抜ける道のみが、
中原方面へのルートであった。
※涿郡は前漢が付けた名前。
魏の文帝曹丕の時に、范陽郡と改称。
隋唐では、涿郡だったり、范陽郡だったり、幽州だったりと名前が変わる。
歴史を俯瞰するときには、涿郡=范陽郡と考えて欲しい。
だから戦国時代の燕は下都という名の副都を范陽に置いている。
中原進出のための前線基地である。
そもそも燕自体、戦国時代にその実態が分かるのみで、
実は春秋時代の動きは未解明だ。
燕の祖は召公奭(せき)と呼ばれるが、
その後の子孫の実態は不明。
燕の実態が見えてくるのは、
戦国時代中期以降であり、それほどまで、
燕のあったこの幽州というのは実は中華文明とは
切り離された存在であった。
●後漢光武帝は幽州まで行かなかった
後漢光武帝劉秀は、
皇帝になる前に、
河北討伐に出ている。
ここでは、戦国時代の趙の太行山脈東麓の旧領・冀州を
メインに転戦している。
劉秀は
中山までは行くが、
それ以上に北上することはなかった。
中山まで来た劉秀に北方異民族の烏丸が駆けつけて服属したためである。
幽州は、劉秀の飛躍の時代、新末後漢初においては、
その名の通り、暗い、未開の地であった。
●黄河の流路変更
そもそも島のようなエリアだった幽州。
それは黄河のためであった。
幽州に入るための道が狭い。
鄴、邯鄲からまっすぐ北上するルートぐらいしか
行き方がなかった。
だから戦国時代の燕は、邯鄲・鄴を抑える趙の動向に影響された。
燕が中華文明の中心地、中原にアクセスするには
趙を通るしかなかったからだ。
趙の武霊王の時代は、燕は趙の属国となっている。
これが変わったのが西暦11年だ。
黄河の流路が、西暦11年にもう少し東にずれる。
これで、中原地域から燕・幽州へと行きやすくなった。
これまでは范陽・保定のところを抑えられてしまうと、
進出ができない。
しかし、ルートの幅が広がったことで、
燕・幽州は中華圏へと徐々に組み込まれて行く。
燕・幽州からすれば、事実上の独立エリアであり続けることが難しくなった。
●幽州は事実上の流刑地
とはいえど、そう簡単に幽州の存在が変わるわけではない。
幽州と言えば、劉備の出身地である。
劉備は涿郡(范陽)の出身である。
劉備と言えば、
前漢皇室の血を継ぎながらも、
草鞋を作って糊口を凌いでいたことで知られる。
この幽州というエリアは、
前漢時代においては、未開の地であった。
後漢になってようやく黄河流路変更により、
開発の機会を得るが、
それが早々変わるわけではない。
ただの田舎だった。
もし劉備が本当に前漢皇室の血を継いでいたとしても、
この幽州涿郡で貧困生活を送っていたとすれば、
完全に忘れ去られた皇室の末裔か、
もしくは罪人であろう。
劉備の師匠とされる、盧植は
実は後世漢人名家とされる一族である。
范陽盧氏と言う。
范陽盧氏は唐代において、七姓十家の一つに定められた。
これは、
姜斉、つまり太公望に繋がる名家であるが、
簡単に言えば、斉に居られなくなったので
逃げてきたのである。
幽州は、日本の平安時代の流刑地土佐(今の高知県)のような位置付けだった。
●参考図書:

- 作者: 成瀬治,佐藤次高,木村靖二,岸本美緒,桑島良平
- 出版社/メーカー: 山川出版社
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