この流刑地同然の幽州。
その名の通り、うらさびれた場所であった幽州。
この幽州の存在感が増してくるのは、
幽州の周囲にいる異民族が保持する「騎兵」であった。
この騎兵を有するものが中原を制する。
それほどの影響力を持つようになっていく。
その端緒は、後漢光武帝劉秀が作った。
劉秀は烏桓の騎兵を味方につけて、河北を統一。
その後は、公孫瓚、袁紹、曹操、魏を挟んで司馬懿と
気付いたら幽州は中華の歴史に大きな影響をもたらすようになっていく。
●公孫瓚の躍進が幽州の存在感を増す。
その幽州が歴史の檜舞台に立つのは、
三国志に出てくる群雄の一人、公孫瓚である。
公孫瓚は、北方の異民族で騎馬を扱う烏桓を手なづけて、
幽州に割拠した。
公孫瓚は騎兵を擁して高い軍事力を誇る。
南隣の冀州に割拠する袁紹と対立。
この袁紹と対立し得たことが重要である。
袁紹は、
四世三公(四世代に渡って、後漢の人臣トップの三公を輩出した)の汝南袁氏出身。
184年に黄巾の乱が起きた際、
後漢の諸臣は皆袁紹のところに身を寄せた。
この大乱を収めることができるのは、
後漢劉氏以外では、最も格上の袁氏であると、
皆考えたためである。
更に冀州は黄河北岸の地であり、
中原の一部分を構成する豊かな地。
これに公孫瓚は、
幽州の騎兵で対抗できたのである。
公孫瓚は最終的に袁紹に負けるが、
これで幽州のポジションが相対的に上昇する。
●曹操の烏桓討伐
曹操は200年に官渡の戦いで袁紹に勝利。
その後冀州・幽州の平定に動くが、
207年に烏桓討伐に向かう。
これは、
公孫瓚、袁紹が烏桓の騎兵を活用したことで、
高い軍事力を誇っていたことを、
曹操が認識していたからである。
曹操は白狼山の戦いで勝利して、
烏桓を服属させる。
幽州の重要性を高めたのは、
異民族の騎兵だったのである。
曹操は烏桓を服属させるまでは、
常に薄氷を踏むような戦いを繰り返してきた。
なんとかやりくりをして勝ち残ってきた。
これが実態だ。
三国志演義に語られるような、
横綱相撲を曹操は取ってきたわけではなかった。
しかし、烏桓を服属させてからは、
曹操は、
陸地で騎兵を自由に動かせるエリアでは
連戦連勝となる。
陸地では無敵となる。
烏桓の騎兵がいたからこそ、
強い騎兵を有する羌族の支援を受けていた、
涼州の馬超に勝てるのである。
●司馬懿による遼東公孫淵討伐で幽州は遼東統治の拠点へ
三国志の時代、
幽州は中華の歴史に絡むようになり始めていた。
しかしながら、
まだまだ黒子の幽州。
これが更に存在感を増すのが、
司馬懿による遼東公孫淵討伐である。
公孫淵の祖父公孫度が
黄巾の乱の混乱に乗じて、
遼東に割拠したのが始まりである。
これまで化外の地であった遼東に漢人が進出したのである。
中華で覇権を取った曹操との友好は保ちながらも、
事実上の独立王国を遼東に作る。
公孫淵の時に、
曹魏と決裂。孫権と結んで自立する。
これを司馬懿が討伐するのである。
この時に鮮卑慕容部が司馬懿に積極的に従うなど、
あまり目立たない事実だが、
後々の歴史に影響を与えるような戦役であった。
●鮮卑慕容部の歴史。
公孫淵の勢力は、
周辺異民族との連携を深めていた。
遼東は辺境として塞外との交易、
および騎馬など軍事力の増強という点で
中華王朝にはメリットのある土地になっていた。
こうした遼東には幽州経由で接続する他なかった。
今まで幽州は辺境の、どん詰まりの場所にあったが、
この遼東討伐で変わる。
遼東が中華に組み込まれたことで、
幽州は遼東へのアクセス拠点となったのである。
●参考図書:

- 作者: 成瀬治,佐藤次高,木村靖二,岸本美緒,桑島良平
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