隋煬帝・唐太宗というエネルギッシュな人物が
成し遂げられなかった高句麗制圧。
これを成し遂げたのは、歴史的評価が微妙な、
唐高宗・則天武后夫妻である。
あまり中華の歴史上、重要な事実なのに、
ピックアップされない史実の一つである。
旧満州に本拠を置く高句麗が唐に支配されて、中華圏へと組み込まれる。
これで、
幽州は遼西、遼東、旧満州支配の重要拠点へと変貌するのである。
●高句麗を滅ぼした唐高宗・則天武后夫妻
世に評価の高くない、
唐高宗・則天武后夫妻。
しかし、この夫妻は、高句麗を滅亡させるという偉業を成し遂げる。
ここに、唐が中華を代表する王朝として完成するのである。
それほど、高句麗遠征は意義のあるものであった。
鮮卑に由来する隋唐。
それを隠して中華に皇帝として君臨する。
このコンプレックスが高句麗遠征を引き起こした。
鮮卑慕容部の遼東支配と高句麗服属。
鮮卑なのにそれを隠して皇帝となる隋唐。
万物は中華皇帝のものという原理原則。
同じ鮮卑の慕容部ができたことを隋唐ができないわけがない。
できないと皇帝の資格に疑義が起きる。
これがコンプレックスとなる。
高句麗にこだわるあまり、
煬帝は身を滅ぼした。
唐太宗も自身が親征する(644-645年)ほどこだわったが、
煬帝の轍は踏むまいと途中で撤退した。
本来中華文明において、
遼東以東、ましてや高句麗など完全に異国の地だった。
しかし、隋唐といった鮮卑が中華を乗っ取ってから、
遼東は内地に、高句麗は異国とも言えなくなるのである。
630年には唐の太宗が漠北に勢力を持つ突厥を傘下に収めて、
天可汗となるが、
隋唐が成立して徐々に中華の中心領域が北へ移動していくのである。
鮮卑という異民族が中華を乗っ取ったことにより、
中華帝国のありようが変わっていくこの隋唐初期。
この変化、昇華と言ってもよいこの変化を完成させるのが、
高宗・則天武后夫妻である。
●巧みな外交戦で、高句麗・倭陣営を打倒する唐高宗・則天武后夫妻。
太宗崩御後、高句麗をじっくりと攻める高宗・則天武后夫妻。
まずは、現在の韓国東部の新羅を懐柔し、冊封する。
つまり唐の従属国にする。
661年には高句麗同盟国の、倭を白村江の戦いで大勝。
勢いに乗じて、こちらも高句麗同盟国の百済(現在の韓国西部)を滅亡させる。
668年には高句麗を滅ぼす。
この辺りの話を膨らませると、話が逸れてしまうので簡潔に言うと、
百済は高句麗の兄弟国で弟分である。
新羅は古来より倭の従属国である。
高句麗と倭は長らく対立関係にあったが、
高句麗の淵蓋蘇文が権力を握ってから修好。
ともに唐と戦ったがここに敗れたのである。
●中華皇帝なら誰もが目指す前漢武帝時代の再来を、唐高宗・則天武后は成し遂げた。
これにより、一時ではあるが、
前漢武帝以来、実に800年ぶりに朝鮮半島を
中華の勢力が支配下に置いたのである。
前漢武帝以来というのは非常に大きい。
前漢武帝は理想の中華皇帝とされていて、
中華皇帝は前漢武帝と同じ状態に持っていくことこそが正統性の証だからである。
670年には新羅が唐を裏切り、
抗争を開始、新羅が逆に朝鮮半島を統一するが、
これは唐としてはどうでもよかった。
高句麗が大事なのである。
新羅は、前燕や鮮卑と関係がない。
新羅が倭(のちに日本)を結ぼうが、
これらは化外の地で、中華帝国にとってはどうでもいいのである。
ただ、中華の徳が分からない、ただの蛮族のことを、
皇帝はメンツにかかわる問題とは捉えない。
そして、この高句麗遠征の成功は、
唐高宗と則天武后夫妻の両者がいてこそだったと思われる。
温厚な高宗と怜悧な則天武后の合わせ技と思われる。
こうして、高句麗の政治問題化は終焉を迎える。
常に高句麗討伐の中華側の拠点は幽州であり、
高句麗が勝てば勝つほどその名は高まっていく。
幽州はこうして遼西、遼東、旧満州支配の重要拠点へと変貌した。
●参考図書:

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