淝水の戦いであるが、これは苻堅の大失敗である。
それどころか、この敗戦で苻堅は全てを失った。
しかしこの淝水とは一体どこのことであろうか。
●淝水ってどこ?
前秦苻堅が大負けした、
中華史上有名な383年淝水の戦い(ひすいのたたかい)。
これは、五胡十六国時代を前半後半に分ける非常に重要な事件でもある。
圧倒的優勢の苻堅が、東晋に大負けした。
それも前秦苻堅自身が自壊したのである。
さて、
淝水、淝水というが、
これはどこか。
これは、寿春から合肥に至る河のことである。
●寿春周辺の地形について
先に寿春周辺の地形について説明をしたい。
許昌から穎水が寿春に向けて流れている。
これが寿春周辺で水路が複雑に交差する。
水が寿春周辺に集まるので、
これを治水するために作ったのが寿春の南に芍陂(しゃくひ)という溜池である。
https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/world/eastasia/shakuhi.html
これは春秋五覇・楚の荘王の指示で、
令尹(れいいん。後の丞相と同じで首相格のポジション)孫叔敖(そんしゅくごう)が
つくったものである。
この治水政策により寿春は飛躍的に開発された。
のちに、
ここ寿春は戦国時代、楚の最後の都となる。
本来洪水が多発する地形の寿春だが、この芍陂のおかげで
肥沃な大地を養うことができた。
また国防の観点からも水路が複雑に存在して、
濠の役割を成すので、
本拠地とするのに適していた。
上記は現在の寿春(地図上では寿県)周辺の図である。(参考:グーグルマップ)
寿県の南の方にある安丰塘(安豊塘)、
これが古の芍陂の名残である。
現代では規模は苻堅の時代よりも大幅に縮小されている。
唐代に決まりを破って、
芍陂から我田引水をしたからだ。
もっと広大な溜池だったのが、
我田引水のために溜池が縮小してしまったのである。
現代になって修復されたがかつての規模ではない。
また、
寿県(寿春)の周辺にはダム湖が増えてしまっているが、
ここに水が集まっているという
雰囲気はこれで伝わると思う。
寿春は水の都であった。
●淝水の場所:
さて、淝水とは、寿春から合肥に至る河のことである。
寿春は様々な水路(河川含む)が集まる場所である。
寿春周辺の治水事業として、
芍陂という溜池があった。
今も残っている。
ここ寿春は洛陽や許昌周辺から、
南京(建業・建康)のある江南へ移動する
通過地点である。
これで思い起こされる、歴史的事実が複数ある。
寿春、合肥に関する歴史的事象:
・曹操・孫権の合肥争奪戦。
・張遼の奮戦
・満寵の旧合肥城から新合肥城への引越。
・孫権最後の親征、司馬懿との芍陂の役
・石勒、葛陂にて足止めを喰う。
・のちに強い勢力を誇った後趙石勒、前燕慕容恪は寿春を手に入れるが、
それでも、それより先には進めなかった。
上記からわかる事実が二つある。
これらは全て、
江南の勢力に対して、優勢な華北の勢力が江南を攻めると、
・常にここ寿春周辺が軍事衝突のエリアとなる。
・そしてこのルートだけでは絶対に突破できない。
という歴史的事実である。
つまり、
華北勢力が江南を攻めるルートとしては、
寿春・合肥ルートは鬼門なのである。
淝水はこのルートの一部分を指す。
上記のように表現は異なれども、
伝えたいことは全て同じである。
淝水は、
華北勢力にとって最大の鬼門ルートの一部分であった。
#淝水の戦い #淝水 #芍陂 #寿春
●参考記事:
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