●淝水の戦いから北魏華北統一まで56年
淝水の戦いで苻堅が大敗。
その後、正史上の流れは、
江南の東晋に移る。
構図がわかりやすいからだ。
謝安、司馬道子、桓玄、劉裕という四人の人物がそれぞれ登場し、
東晋が滅びる、というものだ。
劉裕が東晋から禅譲を受け、
その後、宋(のちの北宋、南宋と区別するために劉宋と呼ばれる。)が
建国される。
劉宋が建国され、
そのうち、気づいたら、
華北を北魏が統一することになる。
439年のことだ。
この北魏は異民族なのに、のちに大胆な漢化政策を取るので、
話題の事欠かない。
しかし、そこに至るまで、
つまり383年の苻堅が淝水の戦いに大敗し、
439年に北魏が華北を統一するまでの、56年間がどうしても抜けてしまう。
そこで、先にここで概観を述べたい。
●苻堅、淝水の戦いで大敗した後すぐに起きたこと
華北は諸部族が自立する。
すぐに自立したのは、
後燕、
西燕、
後秦、
の三か国である。
後燕と西燕は鮮卑慕容部の国である。
後秦は羌族姚氏の国である。
●前秦外様最大勢力の鮮卑慕容部と羌族姚氏
鮮卑慕容部と羌族姚氏は、
前秦において、苻堅の出身部族、氐族以外では
最有力の部族であった。
苻堅にとってはいずれも元ライバル勢力である。
まず羌族姚氏は、
関中の支配を巡って苻堅と争った。
姚襄という人望が厚く、
戦いもうまい頭領に従い、
何万の人たちがその流浪に付き従った。
しかし、
関中の、三原の戦いにおいて、
姚襄は苻堅と戦い、戦死。
後を継いだ、弟の姚萇は苻堅に降伏。
苻堅は儒教かぶれなので、
徳を施せば、皆従うという性善説で、姚萇を丁重に扱う。
また、
鮮卑慕容部は、
強大な軍事国家前燕を運営していた。
しかし、桓温の第三次北伐により、
仲間割れ。
慕容垂が苻堅の元に亡命することで、滅びた。
慕容垂は、祖国を苻堅に売り渡した「悪人」だが、
これも苻堅は丁重に扱う。
●慕容垂、慕容泓、姚萇の独立で、前秦苻堅は崩壊する。
連戦連勝の桓温を一敗地にまみれさせた、
この戦上手で「悪人」の慕容垂も関中に移して、
苻堅は側近の一人として扱う。京兆尹に昇進させるなど、
自身が滅ぼした亡国の皇族としては破格の待遇を見せた。
繰り返しだが、
苻堅は儒教かぶれである。
異民族だが、当時の彼ら異民族にとっては、
漢文化、儒教などがモダン、流行りだったのだろう。
かっこが良かったのだ。
苻堅は文字通り徳を施した。
しかし、
兄を殺された姚萇、
国を奪われた慕容垂は、
苻堅に心服することはなかった。
苻堅が淝水で大転びしたら、
さっさと独立したのである。
苻堅を長安に送り届け、
河北の反乱を鎮圧するという名目で、長安を脱出。
●慕容垂の自立
河北にて慕容垂は384年1月に滎陽で自立をする。
燕王を称す。元号を立て、燕元。この辺りが既に、
慕容垂の、慕容暐に対する独立宣言なのだが、
下記のように伝わっていなかったようだ。
●慕容儁の子で慕容暐の弟慕容泓の自立。
これを受けて、
関中にて、慕容泓・慕容沖も384年3月に自立。
彼らは、慕容儁の息子で、元前燕皇帝慕容暐の弟たちである。
一旦は慕容泓・慕容沖は叔父の慕容垂と連合しようとして、
河北にて移動するもならず。
関中に戻り、まだ長安にいる兄慕容暐の奪還を目指す。
しかし前燕の復興を慕容暐は弟慕容泓に託したことで、
384年4月慕容泓は元号を立てる。
燕興とする。
これは苻堅からの独立でもあり、
先に元号を立てていた慕容垂に対する牽制でもある。
●姚萇の自立
この直前、羌族の姚萇が苻堅の指示で慕容泓討伐をするも、失敗。
苻堅の怒りを恐れて姚萇はそのまま苻堅の下には戻らず、逃走。
渭水の北の馬牧(陝西省興平市)に拠点を構えて自立する。
事実上の後秦の成立である。
しかし、慕容泓は同年6月に臣下により殺害。
慕容沖が後を継ぐ。
384年12月に慕容暐は苻堅に殺される。
385年1月長安にて慕容沖は皇帝に即位する。
385年7月、岐山周辺に逃れていた苻堅は、
姚萇に捕縛される。
姚萇は苻堅に禅譲を迫るも、苻堅は拒否。
385年8月に姚萇は指示して、苻堅を縊り殺す。
383年11月の淝水の戦いの大敗から、
2年弱。
一度は、中華統一の勢いを見せた前秦は、
たった2年弱で崩壊したのである。
●参考図書;