淝水の戦い後の前秦崩壊から完全滅亡までについて述べる。
383年の淝水の戦いをきっかけに前秦は崩壊、
384年に外様の諸勢力の独立が始まり、
385年に苻堅は姚萇に殺され、その残存勢力が394年に完全滅亡する。
●前秦崩壊は三勢力独立がきっかけ。
383年11月に淝水の戦い。苻堅敗戦。
384年1月慕容垂自立。滎陽にて。のち、後燕と呼ばれる。
384年4月慕容泓自立。関中にて。のち、西燕と呼ばれる。
この直前、慕容泓を討伐できなかった姚萇は苻堅の怒りを恐れて、
というよりはこれを口実にして馬牧(渭水北)にて自立。のち、後秦と呼ばれる。
前秦外様の最大勢力、鮮卑慕容部と羌族姚氏が自立したことで前秦は大混乱に陥る。
前秦苻堅は、慕容垂系鮮卑慕容部、慕容泓(慕容暐)系鮮卑慕容部、
羌族姚氏の三勢力の独立により、前秦をまとめ切れなくなっていた。
●385年8月に姚萇が苻堅を殺して前秦は事実上の滅亡。
385年8月
姚萇により、苻堅は殺される。
苻堅の庶長子で苻丕が皇帝を名乗る。
後継を名乗っただけで、
苻堅からの正式な後継を経ていなかったため、
ここで前秦は事実上崩壊した。
●苻堅殺害を受けて後を継ぐ庶長子苻丕。
苻堅を事実上継承した苻丕。
苻丕は優秀で、前燕の旧都鄴を任されていた。
だが淝水の戦いののち、自立した慕容垂の攻撃を受け、
鄴を放棄。
関中に向かう途中の晋陽にて、苻堅が姚萇に殺されたことを知る。
これを受けて、
苻丕が苻堅を継ぐと宣言。皇帝となる。
晋陽周辺に割拠するも、
河北の後燕慕容垂、
河東の聞喜(ぶんき)に本拠を置く西燕慕容永の両方から攻撃を受け苦戦。
このとき西燕慕容永は後燕に従属していたので、
後燕慕容垂が主導して挟み撃ちにしたのである。
●苻丕は西燕に負けて逃走、東晋軍と遭遇し戦死。
386年10月西燕との戦いに敗北、
逃走するところを、洛陽を攻撃しよう進軍していた東晋の馮該に遭遇。
これと戦い、苻丕は敗死する。
この苻丕敗死の報を受けて、
386年11月、甘粛省東部の南安(羌族姚氏の出身地である)にて
苻堅の族孫、苻登が皇帝に即位。
苻登は8年勢力を保ったが、
最後は姚萇の子、姚興に包囲され、394年に敗死する。
ここに氐族苻氏の勢力は完全に消滅した。
●苻堅後の華北。
384年の後燕、西燕、後秦の自立が前秦を崩壊させる。
385年に、後秦の姚萇が苻堅を殺害して、前秦は事実上の滅亡。
後を継いだ、苻丕、苻登は前秦を継ぐも、ただの一勢力に過ぎない。
苻堅が後秦の姚萇に殺されると、
代、
西秦、
後涼
の三か国が独立する。
華北で国家が乱立、割拠し相争う中、
さらに独立するのが、下記の四か国である。
夏、
北涼、
南涼、
西涼、
である。
これら7勢力のうち代を除く6勢力は、
華北の辺縁部の勢力に過ぎず、
歴史の大筋にはそこまで関わってこない。
後燕、西燕、後秦、前秦残党、そして代、
この5プレイヤーで大枠を認識する。
苻堅亡き後の前秦残党勢力を率いたのが苻丕と苻登である。
●苻丕の後を受けた苻登は姚興に敗れ去る。
苻登は苻丕の死を知り、
南安にて皇帝に即位。386年11月のことである。
南安は羌族姚氏の故郷である。
苻堅を殺害した後秦姚萇と徹底的に戦うこととなる。
一時は姚萇を長安に追い詰めることになるも、
苻登が行った羌族に対する差別政策により羌族の離反を招き、
戦線は膠着状態となる。
どういう政策かというと羌族を殲滅するというもので、
離反は当然であった。
冉閔の胡殺令を彷彿させる。
苻登は戦がうまく、局地戦での戦いは連戦連勝だったが、
味方の離反が続き劣勢となる。
394年1月に後秦の姚萇が死去したという報を聞き、
苻登は後秦に決戦を挑む。
しかし、敗退し、
最後は姚萇の後を継いだ姚興に包囲され、
捕らわれた上処刑された。394年7月のことである。
前秦残党の苻登は394年に滅亡することで、
前秦は完全に消滅した。
●参考記事;
www.rekishinoshinzui.com●参考図書;