- ●苻堅後の華北。
- ●西燕は本来、前燕の後継政権。
- ●西燕は建国当初から親慕容垂か、反慕容垂かで内紛。
- ●慕容永が内紛を終息させる。
- ●西燕における親慕容垂か、反慕容垂かで対立する理由。
- ●慕容垂と慕容儁の不仲について
- ●野心家慕容永の登場。
- ●慕容永、慕容垂を裏切る。
●苻堅後の華北。
384年の後燕、西燕、後秦の自立が前秦を崩壊させる。
385年に、後秦の姚萇が苻堅を殺害して、前秦は事実上の滅亡。
この後燕、西燕、後秦が苻堅後のメインプレイヤーである。
後を継いだ、苻丕、苻登は前秦を継ぐも、ただの一勢力に過ぎない。
苻堅が後秦の姚萇に殺されると、
代、
西秦、
後涼
の三か国が独立する。
華北で国家が乱立、割拠し相争う中、
さらに独立するのが、下記の四か国である。
夏、
北涼、
南涼、
西涼、
である。
これら7勢力のうち代を除く6勢力は、
華北の辺縁部の勢力に過ぎず、
歴史の大筋にはそこまで関わってこない。
後燕、西燕、後秦、前秦残党、そして代、
この5プレイヤーで大枠を認識する。
このうち、
前秦残党は、慕容垂に徹底的に攻められ、
最後は姚萇(ようちょう)の子姚興にとどめを刺され、394年に滅亡する。
奇しくも、慕容垂がきっかけを作り、最後は姚萇が殺害した苻堅の死と
同じ構図である。
●西燕は本来、前燕の後継政権。
先に西燕の建国から滅亡までの流れを記す。
慕容垂は386年に苻丕を追い払って
早々に河北覇業の地、鄴を確保。
河北を掌握する。
一方、西燕は内紛が続く。
西燕は、枝葉の政権のような名前だが、実は
前燕の直系政権である。
前燕皇帝慕容儁の子孫が建国した国家である。
●西燕は建国当初から親慕容垂か、反慕容垂かで内紛。
しかし、
384年4月に西燕が建国されるも、
内紛が386年6月まで続く。
慕容泓、慕容沖、段随(慕容氏ではない)、
慕容凱(遠縁)、慕容瑤(慕容沖の子)、慕容忠(慕容泓の子)
がそれぞれ君主として立っては、殺されるという
鮮卑慕容部のお家芸の真骨頂となる。
内紛の理由は、西燕の戦略上の対立だ。
親慕容垂か、反慕容垂かである。
当時西燕が率いていた鮮卑族は40万人とも言われる。
彼らは、故郷の河北の地に帰りたかった。
しかし、慕容垂は慕容儁系の慕容氏、慕容泓や慕容沖を
認めることはなかった。
そのため、路線対立が起き、
血を見たのである。
●慕容永が内紛を終息させる。
結局、慕容垂に従属するとした慕容永が
386年6月に皇帝となり、混乱は収束。
この2年に渡る殺戮の大混乱のために、既に西燕は長安を放棄、
河東の聞喜に退去していた。
その後、一旦長安は匈奴が占領したが、後に姚萇が長安を攻撃、陥落させ、
姚萇は長安を常安と改名、本拠とする。
西燕の慕容永は後燕の慕容垂の指示のもと、
前秦残党を攻撃。慕容垂に従属したので、
慕容永の勢力は、
燕でも皇帝でもなく、河東王と称していた。
しかし、後に後燕から離反。
慕容垂の子と、慕容泓・慕容沖(つまり慕容儁の子孫)の子孫を
殺戮。国内の支持を失い、西燕は孤立する。
394年8月に西燕は慕容垂により滅亡させられる。
●西燕における親慕容垂か、反慕容垂かで対立する理由。
ここから上記の流れを踏まえて、
もうすこし深堀して記す。
そもそも、
慕容垂と手を組むのかどうかのかというのが、
西燕の大きな課題であった。
繰り返しだが、
この原因を生んだのは、
慕容垂と、慕容垂の兄で前燕の最大版図を築いた皇帝慕容儁との
徹底的な不仲である。
●慕容垂と慕容儁の不仲について
一度は、慕容儁の子、慕容泓、慕容沖は叔父慕容垂と合流しようとしたものの、
慕容垂が拒否。
慕容垂は兄慕容儁に徹底的に嫌われており、
屈辱的な名前に改名させられたり、妻を間接的に殺されるなど、
ひどい扱いを受けていたためであった。
やむなく、
慕容泓、慕容沖は関中に徙民させられていた鮮卑族を率いる。
関中で強い勢力を誇るも、彼ら鮮卑族の宿願は河北への帰還。
これをどう取りまとめるかが西燕の至上命題となる。
●徙民政策について
しかし、鮮卑族の本音は、
風土の違う関中での割拠ではなく、
河北への帰還であった。
そのため、彼らとしては同じ鮮卑慕容部の慕容垂と手を結んで、
河北に帰りたいとなる。
しかし、西燕指導者層の
慕容泓、慕容沖は慕容垂に頭を下げて帰ることはできないとなる。
そもそも、頭を下げても帰れるかどうかはわからない。
また帰れたとしても、
慕容儁の血を継ぐ慕容泓、慕容沖は慕容垂に殺される可能性すらあるのだ。
慕容垂の、慕容儁に対する恨みは、まさに恨み骨髄にまで徹すであった。
慕容儁の血を継ぐ、慕容泓・慕容沖にとって、
慕容垂との妥協は到底許されるものではなかった。
こうして、西燕は内紛が起きる。
●野心家慕容永の登場。
最後に立つのは、
慕容永である。
慕容永は親慕容垂を主張して君主として立つ。
後燕慕容垂に従属、
河北へ帰還しようとする。
前秦残党の苻丕にも交渉し、西に帰るので
攻撃しないで欲しいとするも、苻丕は慕容永を攻撃。
386年10月襄陵の戦いである。
しかし、慕容永は苻丕を返り討ちにする。
苻丕は大敗、王猛の子で優秀な補佐役であった王永が殺される。
苻丕は逃走、後に洛陽周辺まで侵攻してきた東晋軍に殺されることになる。
●慕容永、慕容垂を裏切る。
慕容永はこの勝利に気を良くする。
前秦苻堅の後継者たる苻丕の勢力を殲滅したのだから、
当然と言えば当然である。
慕容永は鮮卑慕容部らしく、弱肉強食の論理で、
かつただの野心家であった。
上党の長子に都を置き、皇帝を称し、
西燕を復活させる。
後燕慕容垂との手切れを意味する。
慕容永は、前燕慕容儁の子孫、後燕慕容垂の子孫を抹殺する。
慕容垂は上党という要害の地にうまく割拠する。が、
この地は他エリアに進出しにくいというデメリットがある。
四方攻めるも、攻略できず、
その間、河北を確実に固めた慕容垂が393年、満を持して西燕を総攻撃。
394年に慕容垂は西燕を滅亡させる。
慕容垂が兄慕容儁の系統を駆逐し、
前燕を完全継承した瞬間であった。
●参考図書;