●北魏にとって「代」こと「平城」は中華との結節点
平城は、代である。
現在の大同市。後に燕雲十六州と呼ばれるうちの、「雲」とは代のことである。
ここは中華である。
匈奴の冒頓単于が前漢高祖劉邦とこの代の白頭山で
戦ったことからもわかるように、
ここ代は匈奴ら漠北の異民族にとっての中華への侵入ルートである。
北魏は、
この侵入ルートの最前線に都を置いた。
●六鎮は北魏拓跋氏の故郷
八王の乱以後、
苻堅による断絶を経て、
常に中華の王朝との結びつきで
勢力を保ってきた北魏。
中華王朝との接点は絶えることはできない。
そのために代へ本拠を置いたが、
それは自身の故地、
現在でいうと呼和浩特(フフホト)からウランチャブに至る、
エリアがあってこそである。
ここは北は山脈、
南は西部は黄河、東部はやはり山で囲まれたエリアである。
寒冷ながらも牧草地が広がる、牧畜には
非常に適したエリアである。
馬という軍事力を生産するのに非常に適した地とも言える。
このエリアの確実な確保こそが、
北魏鮮卑拓跋氏の生きる道、
国家的な政略であった。
そのため、
この重要な、北魏が国家として存続するために必要なエリアを
統治するために設置されたのが、
六鎮である。
当然元来の北魏鮮卑拓跋氏の、
軍事エリートで、かつ牧畜行政ができる者が
選ばれた。
北魏の建国元勲とも言える人物たちである。
一方、逆を返せば、
代・平城にいても、
国家戦略を組み立てる以外には、
大して役に立たない人物たちであった。
平城以南は漢民族のエリアであり、
農耕文明や中華文明、また他の異民族に詳しくないと
戦略が立てられないのであるからだ。
六鎮は、
漠北を支配する柔然への防衛のために設置されたとある。
もちろん、北魏にとっての天敵、柔然への備えは大事である。
ただ、それよりも、
ここ六鎮が置かれたエリアが北魏の元々の本拠地であることの方が
大きい。
ここがなければ、北魏はもう成り立たないのである。
●故郷を捨てた北魏孝文帝
成り立たないはずだった。
北魏が国家として成立するために必要だったこのエリア。
それを公然と孝文帝は捨てたのである。
孝文帝はもちろん、
漢化政策の推進者であるが、
北魏拓跋氏の故郷で本拠地の、
六鎮すら捨てたのである。
漢化する、というほど生易しいものではない。
北魏、鮮卑、拓跋氏、
異民族、中華外の出身者、
牧畜、馬、
これら元々の北魏拓跋氏のルーツを
全て捨てた。
北魏孝文帝は自分のアイデンティティを全て捨てた。
北魏孝文帝の漢化政策は、
元々のルーツを全て捨てるほどの
凄まじい変革だったのである。
捨て去られた側としてはたまったものではない。
のちに六鎮の乱という内乱が起きるのは必然と言える。
●参考記事;
●参考図書;