395年と404年。
五胡十六国時代末期、
北と南はそれぞれ異なるタイミングで時代が代わる。
395年は、
華北の異民族抗争に関する天王山、参合陂の戦い。
北魏が大勝し、華北異民族抗争を制する。これで時代が代わる。
404年は桓玄の簒奪という一つの結末を迎えた東晋が、
劉裕という差別される側であったはずの
一介の軍人で貧しい出自の人間により、復活させられることで、
時代が代わる。
●華北異民族は群雄割拠、争乱の歴史。
華北は既に漢人の存在感はなく、
異民族同士で抗争を続けていた。
外交は苦手だが、
高い戦闘力を有する鮮卑慕容部が、
名将慕容垂のもと後燕として覇を唱える。
華北統一までのイメージがわく情勢になるも、
慕容垂が病に罹ることで状況が変化する。
慕容垂不在の後燕軍が辺境の国家北魏に大敗。
その後慕容垂は一矢報いるも、陣没。
北魏は慕容垂の死を好機と見て、
河北へ雪崩れ込む。
河北を掌握した北魏は他エリアにも侵攻、
40数年かかるものの、着実に華北を掌握していく。
参合陂の戦いが歴史の節目となり、
この後は北魏主体の歴史が始まる。
●華南東晋の漢民族は権力闘争の歴史。
華北の異民族が戦争の歴史であれば、
華南の漢民族は権力闘争の歴史である。
東晋において、
皇帝、宗族、瑯琊王氏、陳郡謝氏、太原王氏、
庾氏、譙国桓氏たちが
激しい権力争いを繰り広げてきた。
これら権力争いを最後に勝ち切るのは、
譙国桓氏の桓玄であった。
父桓温の高い名声を背景に、
権力を握るも、早々の皇位簒奪を実行してしまい、
桓玄は足をすくわれる。
一介の軍人から這い上がった北府軍の幹部劉裕が
桓玄に対してクーデターを起こす。
桓玄の皇位簒奪に反発する貴族名族たちの支持を受けてのことだった。
劉裕は軍権を背景に権力を掌握。
そのバックには貴族名族が控え、
これで権力争いが鎮静化する。
劉裕が最高権力者となるも、
その実権を握るのは貴族名族である。
100年以上に渡る、貴族名族たちの皇帝権に対する挑戦は、
自分たちのエージェント(代理人)として、
劉裕を皇帝に据えることで完全勝利へと至るのであった。
南朝の宋、斉、梁において、
貴族名族たちの栄華、贅沢、頽廃は進行。
後世、六朝文化と呼ばれる文化がここで花開く。
文化というものは、無駄がなければ生まれないものである。
貴族名族たちが国家を牛耳ることで、
文化が花開いたというわけである。
●大陸中国という現代の枠組みで考えない。
現代中国は、中国大陸を統一する存在である。
それは隋唐における中華統一が端緒として、
中国大陸を一つとしてみるべきという歴史観になっている。
だが、その隋唐以前の五胡十六国時代と南北朝は、
時代により変化するものの、
主に淮水線から長江線あたりを境界線として、
南北に全く事情の異なる国家があったと
考えたほうが歴史としては認識しやすい。
これが後に、北が南を呑み込むことになるのだが、
それまでは別物と考えたほうがよいのである。
上記の通り、
9年の差を持って、
南北それぞれで時代の変化が起きる。
そして時代の変わり方も異なる。
北は異民族、
南は漢民族として、
その歴史を考える。
こうするとすっきりする。
●参考図書: