歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姚萇が王猛に警戒された本当の理由~羌族の仲良し姚氏~

 

●苻堅に降る姚萇

 

姚萇は姚弋仲の第24子で、

姚襄の異母弟である。

姚萇は331年の生まれで、357年時点で26歳。

若き当主であった。

 

姚襄の生年は不明だが、親子ほどの年齢差があったと想定される。

 

苻堅は姚襄の首と、

姚萇率いる羌族集団の投降という大成果をひっさげ、

長安へ帰還。

元々、苻堅らの氐族は、

後趙時代、姚襄の父姚弋仲の与力であり、格下であった。

元の上役の子孫を臣下にすることほど誇らしいものはない。

 

さらに、

帰還前に既に苻堅派の手により皇帝苻生は殺害され、

苻堅のクーデターは成功に終わった。

 

ここに苻堅の前秦が始まる。

 

●姚萇のもとでも、結束する羌族姚氏集団

 

なお、姚襄の敗死、姚萇の代替わり、

そして前秦への投降、という状況でも、

羌族集団は一切乱れがなかった。

 

姚萇に対する後継者争いや裏切るものがいないのである。

 

この羌族姚氏のまとまりは、この時代にあって驚異的である。

 

姚萇は兄姚襄とは異母弟である。

 

姚弋仲は42人の子供がいたとされるが、

これや姚弋仲を支える羌族の各部族が首領の姚弋仲に

女性を差し出したわけである。

 

となれば、それぞれ姚弋仲の後継者としての資格を持つ子供たちは、

母の実家が後援することになる。

 

姚襄と姚萇は異母弟で、

姚萇が羌族のリーダーになったということは、後援部族が変わったということだ。

 

つまり、政権交代と同じだが、結束は乱れないのである。

 

●王猛から警戒される姚萇の羌族集団。

 

このように、戦上手で結束力の高い羌族姚氏。

前秦苻堅はこれを積極的に活用したい。

しかし、当初は宰相王猛に警戒されたことで

逼塞している。

 

王猛にとって最大の実績は370年の鮮卑慕容部の前燕攻略である。

これに姚萇たちはこれに従軍していないのである。

 

王猛は375年に死去。

それまでの遠征は全て王猛の管掌である。

 

姚萇の羌族集団は小競り合い程度には活用されるも、

王猛に警戒をされていた。

 

371年、前仇池討伐。

 

わかりやすい戦績は上記程度である。

当然と言えば当然である。

羌族姚氏は結束力が高く、戦いが強い。

元々苻堅の家の上司の一族で、当然気位も高い。

出身地も近く、

天水は南安、苻堅の氐族は漢中の略陽である。

 

姚萇の羌族集団は、苻堅の氐族と被っていて、かつ潜在能力が高いのである。

王猛から警戒されるのは当然である。

 

●王猛の遺言

 

前秦苻堅が淝水の戦いで

国を滅ぼすほどの大敗をした理由として良くあげられるのが、

王猛の遺言である。

 

簡単に言えば下記三点が王猛の遺言である。

 

・東晋は腐っても中華王朝で、本来の皇帝。

・落ちぶれたように見えても

まだまだ東晋には地力があるので攻め込まずに和親すべき。

・鮮卑(慕容垂)と羌(姚萇)は

我々にとっての禍根であるので、時機を見て取り除くべき。

  

慕容垂と並べられると、姚萇も裏切りやすい人間であるという印象で

見がちである。

慕容垂は、面従腹背が常である鮮卑慕容部の出身である。

特に慕容垂は自身の力を恃み、独立心が旺盛である。

そのために自分たちの国である前燕を裏切って、前秦に投降。

苻堅、王猛に前燕を滅ぼさせた人物である。

 

これと並び立つ姚萇もそのような人物像で考えてしまうが、

少しそれは違う。

 

●王猛が羌(姚萇)を警戒した理由

 

ここでは王猛が羌(姚萇)を警戒したことについて、

二つの点から説明をしたい。

 

・羌族集団の結束力

 

結束力は独立性を生む。

他者と妥協せず、そして実力があれば自立するものである。

 

既に何度か記述している通り、姚萇の率いる羌族集団は、

異民族の中でも屈指の結束力を誇る。

 

姚萇までもそして姚萇以降も身内で争わない、それが羌族姚氏である。

これは視点を変えると、他の勢力に妥協することはないともいえる。

 

例えば、中華文明を背景にした経済力を活用して、財物で買収できるかと言えば、

それはできない。

強い軍事力で脅せば、なびくのかと言えば、なびかない。

 

外から見れば非常に扱いにくい集団、それが羌族姚氏である。

 

この結束力の高い羌族姚氏が行きつくところは一体どこなのか。

 

それは必然的に自分の国を持つこと。

それしか行きつかないのである。

 

・姚弋仲の胡漢のバランス感覚

 

この独立性を何故持ちえたか。

それは、羌族姚氏の始祖、姚弋仲の強いリーダーシップと、

中華思想を持ちながらも、異民族の習慣を保持した統治能力が大きいと私は考える。

 

姚弋仲の胡漢のバランス感覚は、石勒を想起させる。

 

この点において、羌族姚氏は、鮮卑慕容部や前秦苻堅よりも

高い能力を持っていると私は考える。

 

自分たちの考え方がある姚萇率いる羌族姚氏は、

他者に付属はしても、心からの臣従はしない。

自分を妥協することも結局しない。

 

そして実力もあるこの羌族姚氏を重用することは、

危険でしかない。

 

私は王猛がこのように分析したと考えている。

 

 

・実は王猛の考えは羌族姚氏の始祖、姚弋仲と同じ。

 

王猛が何故上記のような結論に達しえたか。

それは、実は王猛と姚弋仲が同じ考えだからである。

 

羌族の始祖姚弋仲。典型的な異民族のようで、

実は結構漢化されている部分がある。

 

遺言で本来の皇帝は東晋だから、後趙崩壊の暁には、

東晋に服属せよと姚襄に指示する。

 

また異民族は皇帝にはなれないと言い放つ。

石勒、石虎は最晩年に皇帝となったとはいえ、

それまでは天王であった。

 

それは、漢人たちが異民族は皇帝にはなれないという

西晋以来の考えを認識し、尊重する、現実的に妥協するという

判断をしていた。

 

この判断を姚弋仲は理解できていたのである。

 

この目的は、胡漢融合であった。

 

・胡漢融合が五胡十六国時代のキーワード

 

 

五胡十六国時代から南北朝にかけて、

強国になる必須条件は胡漢融合である。

 

例えば石勒は張賓を得て、張賓が胡漢融合を推進して、

覇者となった。

前燕慕容儁は皇帝を勝手に名乗るなど中華思想を踏みにじる部分があった。

だが、弟の慕容恪が異民族と漢人のハーフとして胡漢融合を推進。

河北を席巻した。

 

そして王猛である。

王猛こそが、前秦において胡漢融合を推進したのである。

 

胡漢融合を推進、前秦を強国にした。

挙国一致を実現したのが王猛の何よりの成果である。

 

そして、王猛も実は姚弋仲と同じような遺言を苻堅に残している。

本来の中華の君主は東晋である、と。

 

この考え方は、石勒や姚弋仲に近い部分がある。

石勒はさすがに最後には皇帝になったが、

それまで皇帝にならなかったこと自体が、皇帝は漢人のものという

意識が見え隠れする。

 

姚弋仲はさすがの直言居士、ストレートに言い放っている。

 

王猛はこの系譜に位置する姚弋仲、そしてその教えを確実に守っている

羌族姚氏集団がしていることがわかったのである。

 

一方、前秦苻堅は王猛の死後、

絶妙な胡漢融合のバランスを実行せず、

ただ徳のある儒教皇帝になりたいと思い、他者を信用している皇帝として振る舞った。

 

これで諸勢力のバランスが崩れ、前秦は崩壊する。

 

王猛の考えを体現できたのが羌族姚氏で、できなかったのが前秦苻堅なのだ。

 

王猛はそれに気づいていて、羌族姚氏を警戒した。

前秦苻堅の視点からすれば当然である。

 

 

●参考図書:

 

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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