歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姚泓後秦滅亡原因の一つは胡漢融合の失敗~「文弱」になる、異民族の王の後継者~

 

 

●内憂外患、四面楚歌の姚泓

 

内憂外患。

四面楚歌。

 

姚泓が後を継ぐも、

非常に厳しい対外情勢ということもあって、

鉄壁の結束を誇ってきた、羌族姚氏が仲間割れを始める。

 

姚泓の弟、甥がそれぞれ反乱を起こし、

同じ姚氏がそれを鎮圧するという状況。

 

北は赫連勃勃が関中平野に侵入して渭水流域に迫り、

南からは東晋の劉裕が北伐、洛陽を奪われ、そのまま西進。

これに涼州の西秦は協力し、西から後秦を攻撃。

完全四面楚歌の後秦は、ついに東晋劉裕の

常安(長安)攻撃を許し、

417年8月に常安(長安)は劉裕の手に落ちる。

 

●「文弱」になる、異民族の王の後継者

 

姚泓は文弱とされ、これが後秦末期の滅亡要因となったとされる。

 

これは結論としては、漢化急進派の後継者に対する、

旧勢力の保守回帰的対立である。

 

 

このようなケースはこの五胡十六国時代、他にもある。

 

例えば、

 

劉淵の子、劉和、

石勒の子、石弘。

 

歴史的な異民族の英雄、劉淵・石勒の後継者は

両名とも漢文明に高い教養を有していた。

 

姚泓も同じで、

仏教にも篤く信じる人物で、

いわゆる中華世界における君子であったのだろう。

 

この事象は当然と言えば当然なのである。

 

父は異民族の王者。

勇猛果敢で騎馬を駆り、高い軍事力を誇っていた。

それで、豊かな中華世界に進出。

中華世界の文明の恩恵を受けていた。

 

最先端の知識、教養もそこには満ち溢れている。

 

劉淵、石勒、姚興と、

程度の差こそあれ、中華世界への憧れはあったはずだ。

 

子が中華世界の教養を身に着ける。

それをさらに漢人貴族が促進する。

 

当代の異民族の王者は荒々しく、漢人貴族にとってはとっつきにくい。

何より、屈服した相手に媚びるのも、

プライドの高い漢人貴族は本当はしたくない。

大体において、漢人貴族は異民族に対して強い差別意識を持っているのだ。

 

しかし、後継者であれば、まだよい。

中華世界を知ろうとする意欲、

まだ荒々しさを持っていない。

 

匈奴や羯、羌などの異民族が発祥した地など大して知らないのだ。

それよりも、

中華世界の領域のことの方が知っている。

そこで育ったからだ。

 

異民族の王の子とは言え、

故郷は中華なのである。

 

血縁は異民族だが、

地縁は中華なのである。

 

そして、将来統治することになるだろうエリアは、

中華なのである。

中華に対する理解度は当然問われる。

となれば、

高い文明力を誇る中華の影響を多分に受けるのは当然である。

 

中華は、

文を尊び、武を卑しむ。

 

異民族の王の子どもたちが、

武に偏る要素はない。

 

余程意識しなければ、

意図的に武に偏るような育て方をしなければ、

「文弱」と言われても仕方の内容な、

生育環境しかないのである。

 

これは、文字通りの、

文弱、ではなく、

中華の教養人であると言った方が実態に近いと私は主張する。

 

●鳩摩羅什が姚興に中華国家を志向させた。

 

姚興の治世は前半と後半に大きくフェーズが分かれる。

 

勇猛果敢な前半期。

あらゆる面で劣勢を強いられる後半期。

 

それは、

姚興が中華国家を志向したためである。

 

401年鳩摩羅什を首都常安(長安)に迎え、

姚興は、異民族の部族国家から中華国家へと発展しようと考えた。

 

前秦を滅ぼした羌族姚氏には確かにその資格はあった。

 

しかしながら、中華国家へと変貌しようとしても、

その中核を構成するのは異民族である羌族である。

 

ここに胡漢融合が必要となる。

 

異民族と漢人の融合というのは簡単ではない。

 

漢人の参謀格が

異民族の側に立って、融合を進める必要がある。

 

石勒にとっての張賓、

慕容儁にとっての慕容恪(慕容恪は異民族と漢人のハーフである。)、

苻堅にとっての王猛、

がこの時代の事例だ。

 

相当に難易度の高い事業で、

その難しさは張賓、慕容恪、王猛が死ぬと、

破綻してしまうということからもよくわかる。

 

しかしこの難易度を大きく下げる手段がひとつある。

 

それは宗教である。

 

この五胡十六国時代は中華世界に

仏教が広まる時代でもある。

 

仏教は民族の垣根を超えて普遍的に広がる。

それまで民族ごとにあった風習を、仏教は統一することができる。

 

見た目が異なっていても、

風習が仏教を通じて共通認識を生み出せれば、一体感を生む。

 

姚興は、この仏教、具体的には鳩摩羅什という存在を得て、

仏教を主軸とした中華国家を夢見たのである。

 

●中身は「漢人」の姚泓に対する、羌族姚氏の反発。

 

となれば、後継者は、

仏教に信心深く、中華への教養も深い、姚泓しかあり得ない。

 

しかし、

ことはそう簡単にはいかない。

 

 姚弋仲のころから、半世紀以上、

苦難の羌族姚氏を支えてきたのは当然羌族姚氏である。

 

特にこの一体感のある一族は結束力が高い。

それだけにほかの民族との融合は非常に難しかった。

 

中華文明への理解がなく、

姚萇は皇帝苻堅を縊り殺してしまい、

四面楚歌にあった。

 

非常に苦労したのである。

 

姚興は仏教を得てようやく、

一部族の羌族から脱皮することができるきっかけを得る。

常に周囲の勢力とうまくいかないのは、

羌族の高い独自性、逆に言えば閉鎖性のためである。

これを打破して、中華国家に脱皮する。

苦労した父姚萇を支えてきた姚興としては当然の思いである。

 

しかし、

そのまま羌族姚氏だけの集団でいたいという一族もいる。

 

風習を変えたくない、

よそ者を後秦に入れたくない、

という考えのものもいる。

 

姚興が40歳を過ぎ、

次代の姚泓が継ぐ時代を見据えなくてはならなくなった、

409年ごろから、内紛が続くのは、

こうした事情による。

 

羌族姚氏という部族国家から、

中華国家としての後秦となりたい、姚興。

姚興はこれを姚泓に託したい。

 

しかし、

今まで通り、羌族姚氏の中枢として、

これまで通りの力を振るいたい一族。

 

この対立が、

羌族姚氏の対立を生む。

この対立は姚興が死ぬまで、いや死んでも治らなかった。

 

姚泓の代になると、

状況は既に手遅れの状況。

四面楚歌で内乱が続き、

中華国家を志向するどころではなくなってしまった。

 

中華文明への高い教養と仏教の信心をもつ姚泓は、

このときの後秦にとって何の役にも立たなかったのである。