●司馬氏の興隆とともに拓跋力微の勃興。
258年、鮮卑拓跋部の大人、拓跋力微(たくばつりょくび)
は盛楽(フフホト市ホリンゴル県)へ南下し、そこを根拠地とした。
数万戸の勢力を持っていた。
時は三国時代末。
魏の力が衰えている時で
鮮卑拓跋氏を含めた周辺異民族の動きが
活発な時期であった。
拓跋力微のもと、鮮卑拓跋氏もこの機会に勢力を拡大する。
司馬昭、司馬炎が拓跋力微を自身の権力強化に利用した背景は
下記記事を是非参考にしていただきたい。
263年、魏として司馬昭が蜀を併呑。
司馬昭の死後、
265年、西晋が司馬炎の手により成立。
司馬炎が魏の元帝から禅譲を受ける儀式に、
呼廚泉(こちゅうせん)単于という匈奴の君主の参加していた。
匈奴は曹操の手により、管理されており、
それはこの時代まで続いていた。
中華正統王朝にとって、匈奴の単于を従えることは、
正統性の一つの要件である。
さて、司馬炎は異民族政策について、
匈奴を押さえるのみでは終えるつもりがなかった。
ここで衛瓘(えいかん)の登場である。
●実は西晋の名臣衛瓘(えいかん)の三つの業績
衛瓘。
西晋と言えば、賈充だが、
その陰に隠れた名臣がこの衛瓘である。
この衛瓘には三つの業績がある。
・蜀漢併合を監軍として最後には取りまとめたこと。
・土断法
・異民族政策の成功
である。
衛瓘は、この一つ目の蜀漢併合の際のエピソードと、
八王の乱において司馬亮とともに滅んだので、
あまり印象が良くない。
・衛瓘は蜀漢討伐の時の監軍
蜀漢併合時には、
鍾会の離反を許したこと、その後鄧艾の処刑をして、保身を図ったこと、
これは著しく評価を下げている。
これが、三国志の最後だから、衛瓘のことをよく思う人はあまりいないのではないか。
杜預には、この鄧艾処刑を痛烈に批判されている。
しかし、この衛瓘、司馬炎にとっては非常に重要な参謀であった。
この鄧艾の処刑ののちに、衛瓘は本領を発揮する。
・衛瓘の土断法提案
まず衛瓘の歴史的に重要な業績は土断の提案である。
別項で説明しているのだが、
皇帝司馬炎の手の届かない漢人貴族の領地を、
土断法という形で整理することを提言する。
衛瓘は土断法の最初の立案者である。
こののち100年以上、この土断を実施するかどうかというのは、
常に政治課題として取り沙汰される。
●衛瓘の巧みな異民族分断政策(デバインドポリシー)
本題だが、
この衛瓘は異民族対策で大きな成果を挙げている。
西晋成立とともに、
北方異民族対策の統括担当となる。
当時、
北方で力を持っていた異民族は烏桓と鮮卑拓跋氏の拓跋力微であった。
衛瓘の策は毒を以て毒を制す、であった。
烏桓と鮮卑拓跋氏とも、巧みに調略して内訌を促す。
仲間内で同士討ちをさせたのだ。
烏桓はこれで西晋に投降。
鮮卑拓跋氏の拓跋力微は、
調略による混乱の最中、憂悶のまま病死する。
●拓跋力微が衛瓘の策にはまる経緯
261年拓跋力微は魏に服属する。
その際に、息子の拓跋沙漠汗を人質に出す。
これは265年成立の西晋に引き継がれる。
西晋はこの拓跋沙漠汗を267年に帰国させる。
275年に拓跋力微は拓跋沙漠汗を西晋に貢物を持たせて赴かせる。
ここで衛瓘は拓跋沙漠汗を長めに洛陽に滞在させる。
その間、鮮卑拓跋氏の諸部族の大人に離間策を実施。
その後、拓跋沙漠汗が帰国すると、
その大人たちに、讒言させる。
拓跋力微に、拓跋沙漠汗の謀反を疑わせるようにした。
西晋の滞在が長かった拓跋沙漠汗より、
手元にいる息子を可愛がっていた拓跋力微にはこの策がうまいことはまった。
結果として、拓跋力微は拓跋沙漠汗を殺す。
これにより、鮮卑拓跋氏勢力は分裂し、拓跋力微は失意のうちに病死する。
西晋にとって、目障りだった鮮卑はこれで弱体化し、
晴れて西晋は、古の前漢武帝の時代を再現した。
これこそが中華皇帝としての最終目標である。
西晋の司馬炎は、諡号を「武帝」とされるに値するほどの皇帝となった
瞬間であった。
●参考図書: