八王の乱での対西晋追従が功を奏して
中華諸侯になる鮮卑拓跋氏。
これは中華史における歴史的快挙である。
漢字一文字の国名は中華諸侯の国名である。
「代」の「公」となった
鮮卑拓跋氏の首領、拓跋猗盧(たくばついろ)は、
徹底的に西晋に協力することで、この快挙を成し遂げた。
中華の視点から見れば、
西晋が鮮卑拓跋氏を育てたのである。
●司馬騰に忠実に従うことが功を奏す。
八王の乱勃発。
鮮卑拓跋氏の八王の乱におけるスタンスは、
司馬騰に従い続けることであった。
幷州の都督であり、
鮮卑拓跋氏と境を接する。
この都督と干戈を交えない。鮮卑拓跋氏の統一を維持するためには、
従属関係を堅持する。
結果として、
この司馬騰の兄司馬越が八王の乱の最終勝者となり、
鮮卑拓跋氏も勝者となった。
これで
鮮卑拓跋氏は、拓跋力微以来の
異民族トップクラスの扱いを受ける。
司馬越勢力に協力した異民族は、
鮮卑拓跋氏のみなのだから当然と言えば当然である。
しかし、鮮卑拓跋氏としては大きな意味があり、
これで拓跋力微時代のポジションを取り戻すことになった。
●拓跋猗盧の鮮卑拓跋氏再統一とともに八王の乱延長戦。
この八王の乱が終わった翌307年のタイミングで、
拓跋猗盧が、
単独で鮮卑拓跋氏を掌握することになる。
拓跋禄官と、拓跋猗㐌が死んだからである。
それぞれ3勢力が独自に動いていた状況から、
拓跋猗盧一人の下に鮮卑拓跋氏がまとまる。勢力がより強まる。
西晋は八王の乱で疲弊していたから、
相対的に鮮卑拓跋氏の勢力が強まることになった。
そして、西晋は八王の乱が終わると、
今度は313年永嘉の乱にまでつながる内乱が始まる。
八王の乱の影響は大きく、
西晋国内はまとまりを欠いていた。
西晋最高権力者司馬越は、内乱を鎮めようとするも、
異民族が入り込んでいることもあり、鎮圧に苦慮する。
最後まで司馬越と戦った司馬穎勢力についた、
匈奴や石勒が反抗を継続、
また西晋宗族内でもまとまりを欠いたため、
という二つの理由が大きい。
鮮卑拓跋氏が長らく従ってきた司馬騰は石勒らに殺される。
●司馬騰死後は劉琨に尽くす。
鮮卑拓跋氏は後任の劉琨に、
今度は尽くす。
鮮卑拓跋氏にとっては、
これまでのいきさつからして、
西晋の意向に従わないという選択肢がないのだ。
たとえ、拓跋猗盧のもと、一つにまとまったとはいえ、
西晋の後ろ盾がとにかく必要だったのだ。
拓跋猗盧の正統性の証明が、西晋との友好関係なのである。
この時点で、鮮卑拓跋氏は異民族でありながら、
既に中華世界に取り込まれていたともいえる。
結局中華皇帝の西晋皇帝の承認があってこその、
鮮卑拓跋氏勢力なのである。
このように無意識に鮮卑拓跋氏を取り込んでしまった、
中華国家西晋というのはとてつもない求心力を持つのだろう。
また一方で、
幷州の南で勃興しつつある匈奴と鮮卑拓跋氏は不倶戴天の敵である。
鮮卑拓跋氏の勢力圏は古の匈奴勢力である。
新旧の異民族盟主であるのが、
匈奴と鮮卑拓跋氏である。
このような実利もあり、
匈奴と戦う劉琨に徹底して従った。
●「徹底した西晋従属」が中華皇帝公認の異民族中華諸侯を生む。
鮮卑拓跋氏は漠北の後背地を維持しながら、
永嘉の乱に協力し続ける。
西晋は永嘉の乱で疲弊する。
相対的に鮮卑拓跋氏は勢力を強める。
西晋が滅びる直前には、
拓跋猗盧は代王となっていた。
代は確かに辺境の地であるが、
一文字の国名は中華の証である。
異民族の拓跋猗盧は、中華の諸侯となったのだ。
中華世界の概念において、
最も異民族の中で成功したのがこの鮮卑拓跋氏、拓跋猗盧と言えるのである。
当然と言えば当然である。
やむを得なかったとはいえ、
拓跋猗盧は祖父、父など
身内を殺されても中華皇帝に忠実であり続けたのだ。
兵を出し、常に支援要請を断らない。
こうして、異民族の王拓跋猗盧は、
異民族として初めて、中華諸侯となった。
それは祖父拓跋力微以来の
「徹底した西晋従属」が成し得た歴史的快挙であった。
●参考図書:

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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