●拓跋鬱律だけが中華に従属しないことを選ぶ。
拓跋猗盧(たくばついろ)の血統が316年で絶える。
316年、拓跋鬱律(たくばつうつりつ)が代王になる。
拓跋鬱律は拓跋弗の子である。
拓跋鬱律だけは、今までの中華王朝従属を取りやめた。
319年、趙王を称した石勒が国交を求めるも、
拓跋鬱律(たくばつうつりつ)は断る。
石勒が最も苦しい時期だったので、拓跋鬱律は見くびったのかもしれない。
また国交拒否の理由として、
可能性があるのは、称号である。
中華王朝公認の異民族としての王は、鮮卑拓跋氏が初めである。
それをぽっと出の、それも異民族としても出自がよくわからない、
石勒が王を称し、中華王朝として振る舞おうとする。
これが拓跋鬱律には気に入らなかった。
後に石勒は勢力を大きく伸長するので、外交的には失敗であった。
●拓跋鬱律は東晋とも断交して身内に殺される。
321年、
東晋元帝司馬睿が拓跋鬱律(たくばつうつりつ)に
爵位を与えようとするも、
これも拒否。
中華王朝の東晋にも、石勒にも、そして因縁のある劉曜にもつかないことを
拓跋鬱律は選択したことで外交的に孤立する。
鮮卑拓跋氏は、中華勢力との友好関係により勢力を伸ばしてきた。
大きな外交政策の変更は大きなひずみを生み、
同321年、拓跋鬱律(たくばつうつりつ)は叔母に暗殺される。
ただの異民族に戻るにはもう手遅れだった。
既に鮮卑拓跋氏は中華文明の恩恵を受けていたのだから、
異民族しての原始社会の生活に戻ることはもうできない。
中華王朝との交流なくしては鮮卑拓跋氏の生活を維持することは
できかなったのである。
ここから、鮮卑拓跋氏は結局拓跋鬱律の子、拓跋什翼犍が
後を継ぐまで17年間の内乱の時を送る。
●鮮卑拓跋氏内乱のこの時期は中華全体が動乱のとき。
この間中華大陸は激動の時代を過ごしている。
五胡十六国時代への突入。
317年東晋の成立。
匈奴漢の内乱・自滅後に
劉曜と石勒の手切れによるそれぞれの自立。
330年の石勒華北統一。
334年石虎の簒奪。
南方の江南では東晋が熾烈な権力闘争を繰り広げる。
司馬炎の娘婿で名族瑯琊王氏の王敦、
東晋明帝の外戚庾氏三兄弟、
軍閥の蘇峻らが相争い、
最終的にはそれぞれの勢力が妥協、
東晋をそれぞれの勢力を保ったまま支えることとなる。
●拓跋什翼犍、後趙から離反して自立。
そうした中の
338年拓跋什翼犍の代王即位(~376年)。
これは石虎の調略、鮮卑拓跋氏への介入策である。
拓跋什翼犍は後趙石虎のもとに出されていた人質だった。
つまり拓跋什翼犍の代王即位は石虎の意向で実現した。
同年、石虎は遼東の鮮卑慕容部を攻めており、
鮮卑拓跋氏に指示して
側面からの圧迫を行わせるためである。
しかし、
石虎の鮮卑慕容部討伐は慕容恪の活躍などで失敗。
これを好機と見た拓跋什翼犍は、
後趙と手を切り、
鮮卑慕容部と手を組む。
その後援のもと自立する。
●参考図書:

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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