破竹の勢いで北方に勢力権を作る拓跋珪。
391年の時点で弱冠20歳。
前秦を事実上破綻させ、河北の覇者とならんとする慕容垂。
鮮卑慕容部・燕の復活である。
五胡十六国時代を代表する名将の一人である慕容垂は、
既に65歳の老将であった。
圧倒的な国力と経験の差。
若き拓跋珪は、この慕容垂と決裂するのである。
●慕容垂との手切れ。
拓跋珪は実はこの劉衛辰との戦い時点では、
窮地に追い込まれていた。
391年に拓跋珪率いる鮮卑拓跋氏は
後燕の慕容垂と手切れとなっていたのである。
理由と経緯はこうだ。
まず拓跋珪支配下において、賀蘭部が内乱を起こす。
この鎮圧のために拓跋珪は後燕に兵を出してもらうよう
拓跋珪の異父弟で側近の拓跋觚を使者に出す。
しかし、後燕は拓跋珪の急速な勢力伸長に懸念を抱いていた。
そこで、慕容垂は金を出せ、馬をよこせとして、
拓跋觚を拘留。拓跋觚は脱走するもつかまる。
拓跋珪はこの事件で後燕と断交。
後燕の敵である西燕と手を結び、後燕と交戦状態に入る。
●慕容垂の面子。
あまりにも横暴な慕容垂の行為である。
俄かには信じがたい話ではある。
慕容垂を悪く言っているだけではないかと
思うぐらいの話だ。
だが、多分に事実であったであろう。
●対外情勢から見た背景
まず対外情勢から。
後燕慕容垂は長らく、
西燕と、前燕の正統継承政権という
ポジションを争ってきた。
西燕は、慕容垂から見て前燕皇帝、兄慕容儁の系統であり、本来の直系である。
慕容垂は慕容儁の弟に過ぎない。
それが慕容垂の生来の気位の高さ、
軍事的センスの高さが臣下であるを留まらせなかった。
慕容垂を使いこなせたのは、慕容垂以上の軍事的センスを持つ
庶兄慕容恪だけである。
慕容垂は384年の自立後、この西燕を認めず、争ってきた。
当初はこの慕容儁の子供たちが慕容垂に合流しようとしたにもかかわらず、である。
西燕との抗争が落ち着いてきたこの391年、慕容垂に余裕が出てきた。
そこで、
かつての前燕と同じ領域を治めようとするときに、
気付いたら勢力を伸ばしていた鮮卑拓跋氏が目障りになったのである。
鮮卑拓跋氏は、
拓跋什翼犍以来鮮卑慕容部の従属国である。
慕容垂から見れば、父慕容皝の時代に拓跋什翼犍を後援。
前燕が滅びた余波で数年後に鮮卑拓跋氏も滅びる。
再興も一緒。
しかし、今や明らかに辺境の地名であった代ではなく、
魏という国名を名乗っている。
魏というのもあまりよくなかったであろう。
魏=鄴であり、後燕慕容垂の帝都は中山であったが、
前燕の帝都は鄴であった。
さらに拓跋珪は漠北まで影響を伸ばしつつある。
余裕ができた慕容垂は、ここで北魏の拓跋珪に釘を刺したかったのではないか。
●慕容垂「鮮卑慕容部・燕の正統後継者である俺にひざまづけ」
前燕の正統後継者は俺だ、前燕の時のように、
鮮卑拓跋氏よ、ひざまづけと。
上記のように本来は後継者とは言えない慕容垂。
正統性に疑義がある慕容垂だからこそ、
この面子にこだわったのではないかと
思われる。
そもそも慕容垂はプライドが高い。
生来の性格もあるのだと思う。
母が匈奴出身ということもあり、血筋も鼻にかける。
慕容恪には劣るかもしれないが、軍事の才能は卓越している。
そうしたこともあって、傲慢なのだ。
他人と相いれるようなこともしない。
それができていれば、前燕末期、叔父の慕容評と
落としどころを見つけて、前燕はひとつにまとまっただろう。
しかし慕容垂は、敵対国前秦に亡命し、
挙句の果てに、前秦苻堅の先兵として
祖国前燕を滅ぼしたのだ。
慕容垂により軍事機密が全て前秦に漏れているのだから、
前燕に勝ち目はない。
このような気位の高い慕容垂である。
慕容垂としては拓跋珪を少しいじめてやろうぐらいの気持ちだった。
慕容垂は拓跋觚を抑留。少し拓跋珪に無理難題を吹っ掛ける。
金であろうが、馬であろうが、少々のことであれば、
拓跋珪が出そうと思えば出せるのだ。
ごめんなさい、これで許してくださいと言えばいいのである。
しかしそうはならなかった。
この拓跋珪と慕容垂の手切れは、
この辺りの背景が差っ引かれて説明されるので非常にわかりにくい。
元々、鮮卑拓跋氏が鮮卑慕容部に従属していたこと、
慕容垂の悪人と言ってよいほどの人物像を
知らないと何が起こっているのかがわからないのである。
●参考図書:

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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