歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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拓跋珪、セオリー通りの参合陂の戦い、大勝利

 

 

●参合陂の戦い 

 

 下記画像はウィキペディアより引用。

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こうして、

拓跋珪と慕容垂の皇太子慕容宝は干戈を交えることになった。

 

参合陂とは、上記画像の中にもあるように、

英語でいうとスロープ状になっている。

※なお参合陂の場所は二つ説があり、ここでは平城の東の

陽高県であるという説をとっている。

もう一つは、平城の北東、ウランチャブの東の、今の岱海である。

 

ここは東に向かって下り坂になっている。

「陂」とは堤という意味である。

すなわち、この低地に参合陂という溜池があった。

 

結論から言うと、

ここの低地に駐屯していた後燕慕容宝軍を、

北魏拓跋珪が突撃して大勝利を挙げたのである。

 

●拓跋珪は遊牧民の典型的な戦い方をする。

 

総勢10万の軍勢で北魏に攻め込んだ後燕慕容宝。

対する拓跋珪は、そもそも人口が多くないのだから、

大した軍勢もない。2万数千ぐらいだ動員兵であったようだ。

しかし騎兵率は高いと想定されるが。

 

となれば真っ向勝負は避けたいというのが拓跋珪の心情だ。

 

上記画像を再度見ていただきたい。

 

これは実は匈奴以来の実に伝統的な遊牧民の戦い方であることが分かる。

 

まず、拓跋珪たちは、四方に散る。

本軍たる拓跋珪を追わせる。

自陣奥深くに敵軍を引き込む。

疲れさせる。

そこで騎兵中心の奇襲を敢行する。

そして撤退させ、追撃。

しかるべきところでとどめを刺す。

 

というわけである。

 

これは遊牧民、異民族と言ってもいいが、彼らのセオリー通りの

戦い方なのである。

 

●拓跋珪は基本に忠実かつ兵法を大胆に応用する名将。

 

一点だけ拓跋珪が大胆だった部分がある。

拓跋珪は平城どころか、盛楽も捨てて、黄河の西に退避している。

黄河を挟んで後燕慕容宝軍と対峙したのだ。

 

異民族にとって都市はそこまで価値を持たないが、

これは相当に大胆は作戦だ。

 

これで膠着状態に陥り、冬が訪れて、慕容宝軍は撤退することになる。

 

この辺りは、セオリー通りとはいえ、

基本に忠実な中、実態に兵法を当てはめていけるのが

拓跋珪の凄さと言える。

 

●実は慕容垂も遊牧民の正攻法で桓温を撃退している。

 

慕容宝の父慕容垂は、この手法を使って、

東晋桓温の369年第三次北伐を撃退している。

 

 当時、桓温は前燕の帝都鄴の手前まで迫っていた。

慕容垂は桓温の裏を取って退路を断つ。

桓温は撤退せざるを得ず、

その撤退の最中、慕容垂は桓温を叩く。

こうして慕容垂は桓温を撃退した。

 

●坂の上に陣取る拓跋珪ら北魏騎兵軍、これもセオリー。

 

参合陂は100年前の拓跋禄官時代からの、

鮮卑拓跋氏のテリトリーである。

当然地理にも明るかったであろう。

 

西の代と東の河北では高低差がある。

西の代が高原で河北は平原である。

慕容宝たちが帰るには坂を降りなくてはならない。

 

後燕軍が坂を下ったところを、

騎兵率が高い、北魏拓跋珪軍が

坂を一気に下りながら攻めかかる。

 

騎兵の全速力の突撃である。

後燕は河北政権であり、漢人も従軍しているので、

歩兵率も高い。

 

この騎兵の突撃にひとたまりもなかった。

 

●遠征で疲れる後燕軍、慕容垂の病状も気になり戦いに集中できない。

 

挙句の果てに、

この後燕軍は、フフホトまで遠征しているのである。

疲労困憊しているこの後燕軍は北魏拓跋珪たちの

猛烈な突撃により大敗した。

総大将皇太子慕容宝は、単騎で逃亡したとされる。

 

 

慕容垂の病気により、後燕幹部が後方に不安を抱えていたことも大きかった。

絶対的な存在の慕容垂が死ぬと、

また異民族流の実力主義的後継者争いが起きるのだからそれもやむを得ない。

 

それを気にしながらの遠征は、まとまりを欠いた。

積極的な決断もできなかった。

 

●慕容垂にとっての参合陂の敗戦は、前秦苻堅の淝水の敗戦と同じ。

 

北魏の突撃にひとたまりもなく、

前が北魏の騎兵、後ろを参合陂という溜池に囲まれてしまい、

後燕はこの参合陂に飛び込んで溺死するという悲劇的な状況であった。

 

後燕軍の半分、五万人程度が北魏に投降する。

 

 

北魏は総動員兵2万程度であるので、

これを抱えながら帰還することはできない。

 

拓跋珪は、260年長平の戦いにおける白起のごとく、

捕虜を穴に生き埋めにして殺した。

この中には、後燕の宗族も複数含まれていた。

 

後燕の大敗である。

壮丁と言われる、いわゆる働き盛りの男性を5万も失ったのだから、

後燕は大きく国力を落とした。

 

まさしく、長平の戦いで敗れた趙が、この戦いを

機に国力を大きく落としたのと同じである。

戦国時代、秦と何とか互角に戦っていた趙。

しかし長平の戦いで敗れ、投降した趙兵20万人を

秦の名将白起が生き埋めにして殺したことで、趙は一気に国力を落とし、

秦の攻撃に対して防戦一方になった。

 

慕容垂にとっての参合陂の戦いは

前秦苻堅にとっての淝水の戦いである。

両者ともこの敗戦で、事実上国を滅ぼしてしまったのである。

 

北魏拓跋珪は、

この参合陂の戦いに大勝利することで、

あと一歩で河北の覇者となり得た

後燕を引きずり落とすことに成功したのである。

 

#北魏 #拓跋珪

 

●参考図書:

 

 

五胡十六国―中国史上の民族大移動 (東方選書)

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