表題の規則は、
「子貴母死」と呼ばれる。
これは北魏における制度である。
皇帝の後継者になった母親は身分を問わず、自死を賜る(賜死)、
つまり自殺せよとなる。
これは外戚の専横を避けるためであったとされる。
●北魏において「子貴母死」が行われることになった背景。
とはいえ、そう簡単な事情ではなく、
これは諸部族の対立により起きたルールである。
結論、北魏のこの「子貴母死」は後世のこじつけである。
拓跋珪を最終的に継承したのは拓跋嗣である。
母は匈奴の名門独孤部。
独孤部は拓跋珪が北魏を建てる前から匿い支援した。
しかし、一方で拓跋珪には賀蘭部の妃もいた。
賀蘭部は独孤部での内乱により拓跋珪が逃げ延びた先である。
拓跋珪を殺した拓跋紹の母は賀蘭部出身である。
拓跋珪殺害に関して、賀蘭部が拓跋紹を支援したのは間違いない。
拓跋珪は、怪しげな道士の仁丹により
30代後半にして金属中毒で気が狂っていた。
拓跋嗣は、父拓跋珪殺しの犯人で異母弟の拓跋紹と母を捕らえ、
自殺させる。
拓跋嗣はこれで、拓跋珪を継承して皇帝になるわけだが、
しかしながら、同母弟拓跋紹の母方の実家、賀蘭部の勢力は保たれたままである。
北魏は386年の建国から賀蘭部の力に大きく頼ってきた。
拓跋嗣としては、円滑な皇位継承をするために、
賀蘭部の要求を飲んだというのが真相だと私は考えている。
拓跋嗣の報復をしない証拠に、母を殺して独孤部との関係を絶て。
そして、旧来通り賀蘭部を取り立てよ、と。
この要求を拓跋嗣は受諾し、母に自死を言いつけたというわけである。
北魏らしい由来がこの「子貴母死」である。
●「子貴母死」の一般的に伝わる由来
一般的な由来は、
前漢武帝が晩年に後継者に定めた後の、昭帝の実母を殺した事例である。
武帝が昭帝を後継者に定めた前91年、昭帝は当時4歳。
武帝は65歳という高齢であった。
武帝はこの前91年に本来の皇太子一族を族滅させてしまっていた。
高齢ということもあり、後継者選定に失敗が許されなかった。
そのため、昭帝が皇帝になった際に外戚の専横を絶対に許さないとして、
昭帝の実母の趙婕妤(ちょうしょうじょ)は
自死を言いつけられる。(これを賜死という)
何とも気の毒な話である。
呂后の専横が理由として挙げられるがどう考えても後付けである。
前漢武帝の時でさえも、体のよい建前である。
北魏の明元帝の際に、ここまで前漢の故事を知っていたとは思われない。
これも後付けである。
●前漢武帝の故事にこじつけた北魏
このエピソードから
約550年の時を経て、
409年の北魏にて、同様のことが行われる。
明元帝拓跋嗣は当時17歳であり、
前漢昭帝のように幼くはなかった。
ただの権力争いであったが、
後に中華の教養を手に入れた北魏が、
過去の故事を引っ張り出して、理由をこじつけたのである。
●北魏「子貴母死」が実施されたのは二回のみ。
この制度は、409年北魏明元帝即位の時に始まり、
宣武帝(在位499年ー515年)の時に廃止された。
宣武帝の後継者孝明帝は5歳で皇帝となり、胡皇太后が
幼帝に代わって、臨朝称制したのである。
宣武帝の父は、北魏を一気に漢化させた孝文帝である。
この「子貴母死」という、現代の我々からすると、
非常に残酷な制度を、漢化した北魏皇族も同じく感じ、
廃止したのだ。
実際に北魏において、
この「子尊母死」が行われたのは、
明元帝拓跋嗣と孝文帝の母の二人だけであった。
後は、皇帝になる前に母が死んでいた。
例外は献文帝の母、馮太后である。
献文帝は即位をするときに11歳。幼年だからというのもぎりぎりの線である。
後に馮太后は子である献文帝を逆に毒殺する。
馮太后は本当に献文帝の母だったのかという問題もあるので、
この辺りの事情は難しいところである。