- ●402年柴壁の戦いで後秦を大破。
- ●オルドスの匈奴鉄弗部がきっかけの、柴壁の戦い
- ●後秦が北魏の平陽を攻撃した背景。
- ●北魏拓跋珪の成功要因・抹殺戦法
- ●402年柴壁の戦い、その後。
- ●匈奴鉄弗部赫連勃勃の自立。
●402年柴壁の戦いで後秦を大破。
402年、後秦との間で、柴壁の戦いが起きる。
後秦が幷州の平陽を攻撃したことをきっかけに、
交戦状態となる。
これに対して、
拓跋珪は親征を決意し、一気に平陽を包囲しようとする後秦軍を
捕捉。拓跋珪が後秦軍を包囲する。
この柴壁の戦いは、後秦にとっての、「参合陂の戦い」となる。
後秦は柴壁の戦いで敗北し、これを境に衰退していく。
(グーグルマップを元に筆者加工。地形は現代。)
北魏の本拠・平城(今の大同)からみると南西の端。山を越えた先にあった。
後秦の本拠・常安(今の西安)から見ると、北東の端。
平陽のある河東地域は、平陽以外は後秦支配下。平陽を
押さえて、河東を完全確保したかった。
●オルドスの匈奴鉄弗部がきっかけの、柴壁の戦い
北魏が後秦と敵対関係に入ったのは、
後秦が北魏支配地のオルドスを奪ったからである。
オルドスは元々は匈奴鉄弗部の領地であったが、
拓跋珪が386年北魏を建てて5年後の391年に滅ぼしていた。
当時の北魏の本拠盛楽から見て黄河の川向うがオルドスである。
一方、394年にようやく関中をまとめた後秦。
後秦からするとオルドスは北方である。
後秦の防衛圏を作るには、本来はオルドスを北魏から奪って黄河の線を
国境線としたい。
後秦天王姚興は396年に北魏からオルドスを奪う。
同じ年に北魏拓跋珪は参合陂の戦い後の慕容垂の攻撃を受けていることから、
困難な時期の後秦からの攻撃は堪えた。恨んだ。
その後、拓跋珪は後燕を事実上滅ぼし、河北の覇者となる。
オルドス方面への反撃を始める。
402年、後秦についていた没弈干を攻撃したことから、
再度北魏と後秦は交戦状態に入る。
●後秦が北魏の平陽を攻撃した背景。
平陽は後秦と北魏の国境にある要地である。
かつては匈奴漢の帝都である。
春秋時代の晋も平陽近辺に本拠を置いていた。
幷州は、代、太原の山西高原、上党、そして平陽のある河東の
四つのエリアに分かれるが、
この河東を掌握するにはこの平陽が要であった。
関中を本拠に河東を獲ろうとする後秦姚興。
北魏としては、河東への足掛かりの位置づけが平陽。
北魏拓跋珪は、その破竹の勢いで、河北で手一杯に見えたのだろう。
姚興は、弟姚平に兵を授け、平陽を攻撃した。
姚興には歴戦の名将が叔父に揃っているのに、弟を出した。
平陽は要地でありながら、北魏から見れば、
遠隔地なので、決戦にはなり得ないと姚興は判断したのだと私は思う。
平陽だけを戦略目標にする。
そして、河東は後秦、ほかの幷州は北魏という状態にしたかった。
平陽が後秦のものとなれば、逆に両国の国境線は安定するのだ。
●拓跋珪の迅速な親征
しかしこれに対する北魏拓跋珪の決断は、決戦であった。
慕容垂が結果的に拓跋珪と手切れとなってしまった経緯もそうなのだが、
拓跋珪は弱腰と見られていたのだろうか。
それとも表に出ていない調略などがあったのだろうか。
結果から見れば後秦天王姚興は、北魏道武帝拓跋珪という
人物を見誤っていたと考えざるを得ない。なめてかかっていたのだ。
北魏道武帝拓跋珪は、平城から一気に南下して、後秦の姚平軍を包囲。
これを知った後秦天王姚興も親征。
常安(長安は後秦では常安と改名していた)から平陽の方が、
平城から平陽までよりも近かったが、間に合わなかった。
●北魏拓跋珪の成功要因・抹殺戦法
姚興の救援よりも前に、
拓跋珪の北魏軍が姚平率いる後秦軍を全滅させてしまった。
この402年柴壁の戦いは、後秦にとっての「参合陂の戦い」
となる。
壮丁、つまり働き盛りの成人男性をここで著しく失ったことで、
後秦は大きく国力を落とすこととなる。
拓跋珪としては、
後燕を一気に葬り去った参合陂の大勝利の再来である。
今回も、敵国の投降を許さず、皆殺しとした。
参合陂のときの投降した後燕は生き埋め、
今回の後秦軍は抹殺である。
拓跋珪が一代で河北の覇者となったのは、
戦国時代を思わせる、この抹殺戦法が功を奏したからでもある。
●402年柴壁の戦い、その後。
北魏拓跋珪は402年の柴壁の戦い大勝によりさらに勢いを増す。
一方、柴壁の戦いの大敗により著しく国力を落とした後秦は
劣勢となる。
後秦の勢力拡大もここで終わる。
404年に東晋の最高権力者となった劉裕から、
淮水以北12郡の返還を求められこれに応じる。
東晋において、桓玄が反乱・簒奪しているときに、
後秦が奪ったものだったが、
後秦は東晋と結びつくために、淮水以北12郡を割譲する。
407年、北魏と後秦は和睦する。
北魏の攻勢は続くも、決め手に欠け、ここで拓跋珪は手打ちとする。
後秦としては、これでようやく息をつけるというものだっただろう。
●匈奴鉄弗部赫連勃勃の自立。
しかし、
匈奴鉄弗部の劉勃勃(後の赫連勃勃)が
この和睦に反発し、独立する。
匈奴鉄弗部にとっては、北魏の鮮卑拓跋氏は祖国を
滅ぼされた仇敵である。
和睦を許せずオルドスで独立し、劉勃勃は北魏と対立する。
北魏鮮卑拓跋氏と同じような戦法を取る劉勃勃は、
北魏にとって厄介な相手となる。
のちに赫連勃勃と名乗るこの人物が425年に死ぬまで、
北魏はオルドスに手を出せなくなる。
一方、この後、道士の仙丹で拓跋珪は気が狂うようになる。
これに危機感を覚えた、
409年、次男の拓跋紹により殺害される。
享年38歳であった。