拓跋珪が、
早くから仏教を取り入れていたのは
非常に特徴的である。
部族解体からの
仏教需要。
早くから拓跋珪が諸部族を
跨ぐ形での帝国建設を意図していた証拠である。
●部族解体された民をまとめるのが仏教。
道武帝拓跋珪は、
異民族ならではの部族社会を解体して、
民を皇帝直属とする。
これにより、
拓跋珪は、部族長からの影響を削ぎ、
そして民が直属となったことで、軍事力の強化に成功する。
しかしながら、
この変革は、
民が住まう社会を崩壊させたことも意味する。
これまではそれぞれの部族社会での
ルールがあった。
部族社会ごとに使われている言葉すら異なっていたのである。
社会的規範が大きく異なる人間たちが、
一つにまとめられたのである。
帝都平城においては、
同じ部族同士で居住してはならないとされた。
今で言えば、
言語の異なる異国の人たちが急に共に住み始めるということである。
●北魏は国家としてはじめて仏教を推進。
国家運営を考えるにあたり、
このバラバラになった民を
一つにまとめる方法が求められる。
それが仏教なのである。
宗教を語る際には、
どうしても、その宗教がどのように布教したかという点が
クローズアップされる。
しかし、現実の宗教というのは、
どうしても政治的背景を伴う。
これは現代でも同じである。
拓跋珪にとっての仏教は、
部族それぞれにあった生活規範、共通概念に代わる、
民全体の生活規範、共通概念こそが
仏教であった。
仏教を信奉することで
共同体としての意識を醸成する。
これこそが拓跋珪の仏教保護の真意である。
拓跋珪は僧侶・法果を登用して、
国家として仏教を管理する。
拓跋珪が、早くから他民族国家としての北魏の統治を
意識していた事実である。
●異民族君主として、仏教を信奉したのは石勒、姚興。
ほかに異民族君主として、
仏教を手厚く保護したのは、
石勒、姚興である。
石勒は、仏図澄を保護。
仏教の概念を知ることで、治世に温情が出る、
姚興は鳩摩羅什を確保。
仏典を翻訳させて、文明力を高める。
しかし、石勒・姚興の仏教保護は、
財物や知識の獲得であった。
国家宗教として仏教を活用するのは、
拓跋珪が初めてである。
これがのちに雲崗の石窟などにつながっていく。
●中華世界として、初めて仏教を保護したのは孫権である。
※中華世界で初めて国家として仏教を保護したのは、
孫権である。西域の月氏の出身、支謙が呉で布教した。
支謙は元々洛陽で仏典の翻訳をしていたが戦乱から逃れて、呉にやってきた。
後に、インド出身の康僧会が247年に、建業において、建初寺を建立。
これが中華における初めての仏寺である。
●隋唐に至るまでの国家仏教のはじまりが拓跋珪。
北魏から南北朝、隋唐と
仏教は国家と密接に関わることとなる。
時には、ライバル道教に押されて、
三武一宗の法難なども起きる。
例えば、
仏教を信奉した人物で有名なのは、則天武后、
道教を信奉した人物で有名なのは、唐玄宗である。
道教側が国家に関わるきっかけは、
拓跋珪の孫、太武帝である。
仏教、道教が交互に国家に関わっていくのだが、
その始まりが拓跋珪が仏教を北魏として受容させたことであった。