歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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北魏道武帝拓跋珪、6つの革新政策その2「④仏教保護 ⑤「魏」のストーリーを継ぐ ⑥抹殺戦法」

≪①からの続き≫

 

下記は①からの引用文。

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拓跋珪の存在があってこそが北魏を華北統一まで導き、

のちにその後継王朝が隋唐時代の繁栄を作る。

 

●拓跋珪の6つの革新政策。

 

拓跋珪の6つの卓越した政策は下記である。

 

①異民族の地に留まる。

②漢化しない。

③皇帝集権

④仏教保護

⑤「魏」のストーリーを継ぐ

⑥抹殺戦法

 

 

まず説明したいのは、

この6つの政策は、

これまで五胡十六国時代において、

散々悩まされてきた政治課題に対する解決方法であることを強調したい。

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④⑤⑥についてここでは述べたい。

 

●国家主体の仏教保護

 

部族解体により、

今までの社会的規範を大きく損なう政策を取った拓跋珪。

 

異民族の部族というのは、

小さな国のようなものだ。

それぞれが異なった生活規範を持ち、話す言葉の違う。

 

それを、

解体して皇帝のもとに一つにまとめる。

 

しかし、

皇帝直属というだけでは、

一つにまとめ切ることは難しい。

 

そこで、出てきたのが仏教である。

 

●「④仏教保護」施策

 

 

北魏は仏教国家である。

仏教によって一つにまとまるのだと。

 

皇帝の元、仏教を規範としてまとまる。

 

今までの部族社会規範に代わるものとして、

仏教を活用した。

 

石勒や姚興は仏教を篤く信奉したが、

これらは皇帝たちの教養止まりであった。

 

姚興などは鳩摩羅什を使って、国家的政策を実行しようとしたが、

そこまで至らなかった。

 

あくまで高い身分の人たちの教養に過ぎなかった仏教を、

国家的政策に昇華させたのは、拓跋珪である。

 

宗教という存在が、

部族や人種を超えて、

一つの巨大なコミュニティを構築するのは、

現代の我々であれば理解できる。

 

拓跋珪は、

北魏=皇帝拓跋珪=仏教国家、

これに全ての支配民が付属する、

という体制にした。

 

●中華国家としての在り方。

 

胡漢を分けて考える。

漢は漢人に統治させ、今風に言うと植民地扱いする。

 

拓跋珪自身は平城という胡漢の結節点であるが、

胡の地に留まり、軍馬に親しみ、軍事力を保持し続ける。

 

その上で、

異民族の悪癖、弱肉強食文化を屈服させるために、

部族を解体して皇帝集権を推し進める。

 

ここまででも考えたことだけでも卓越したことであるし、

実行し切ったことも、拓跋珪の実行力・決断力に対して、

称賛しかない。

 

しかし、

これだけだとただの異民族シフトである。

 

●「⑤「魏」のストーリーを継ぐ」施策

 

 

 これら政策のさらに前提に、

拓跋珪の決断力が凄いのが「魏」であるとしたことである。

 

拓跋珪の時代において、

魏というのは、

戦国時代の魏、曹操・曹丕の魏、冉閔の魏などである。

(ほかに翟魏などもあるが)

 

これらはいずれも、

地名に基づいた国家である。

 

そうするのが普通なのである。

 

しかし、

拓跋珪は地名だけで自分たちの国名を判断しなかった。

 

まず代という国名に疑問を覚えた。

 

格が低いし、東晋から与えられたものである。

 

そこで、

考えたのが、

東晋という晋という中華国家の在り方、

そして、鮮卑拓跋氏の前代の異民族国家、匈奴の漢である。

 

東晋は、

晋は漢を受け継ぎ永続するとしている。

匈奴の漢は、

前漢・後漢・蜀漢を受け継いで、

永続するとしている。

匈奴漢は、匈奴であるが、漢と兄弟の契りがあったので、

その永続性を受け継げるとしている。

 

つまり、

この五胡十六国時代後半期においては、

易姓革命や禅譲という概念はないのだ。

 

まず異民族の元亡命王子であった、拓跋珪が

これを理解したこと自体、拓跋珪自身が相当に

教養を持っていることを示している。

 

この上記の話に関しても、

現代の我々が普遍的なロジックというわけでもないのだから、

拓跋珪はつまり勉強した。

 

当時の中華の国家観を理解した。

 

匈奴漢がこれを理解したのは、

匈奴漢を作った劉淵自身が匈奴の血筋でありながらも、

長らく漢地、それも西晋の帝都洛陽にいたからである。

 

洛陽にいったこともない、拓跋珪が

これを理解したことの凄さは強調したい。

 

●匈奴の劉淵をベンチマークする拓跋珪

 

匈奴の劉淵が漢を名乗った故事を理解する。

 

確かに兄弟の契りを結んでいる。

平城の東にある白登山で、きっかけになる戦いがあった。

 

しかし、

鮮卑拓跋氏にはこのような事例がない。

 

そこで、

鮮卑拓跋氏が魏に朝貢したという事実を拡大解釈する。

 

魏の天下国家を鮮卑拓跋氏も共に創ったとする。

220年曹丕が後漢献帝から禅譲されて、

魏を建国した。

この際に、鮮卑拓跋氏の初代君主、拓跋力微も天命を受けたとするのである。

 

この歴史を作るために、拓跋力微は「103歳まで生きた」ことになっている。

当然、嘘だが、それは

この上記のストーリーを作るためである。

 

鮮卑拓跋氏の北魏は、

魏を継いでいる。

 

後漢を禅譲で受け継ぎ、

曹氏が滅びた後は、鮮卑拓跋氏が継いだのだとする。

 

こうすれば、

東晋とも対等であるし、匈奴漢とも対等である。

曹丕の禅譲をどう解釈するかという問題もあるが、

東晋はそもそも曹魏から禅譲を受けたタイミングで皇帝を称したわけであるし、

この辺りまでは詳細に言及しなくてもいい。

 

こうして、

拓跋珪は北魏という中華国家を建設した。

 

この「魏」のストーリーがあれば、

中華の地を支配する大義名分ができるのである。

 

●異民族は抹殺

 

最後に、である。

 

●「⑥抹殺戦法」

 

こうした拓跋珪が当面戦うのは、

異民族である。

 

東晋は

長江の南に撤退し、遠い。

 

目の前にいる敵対勢力は、

鮮卑慕容部の後燕、およびその残党、

羌族姚氏の後秦、

匈奴鉄弗部、

などである。

 

彼らは全て異民族である。

 

これに対して、

拓跋珪は戦いで実力主義的に屈服させていった。

 

捕虜となれば、

数万の人間を惨殺。

 

一気に敵対勢力の国力を削減できる手法だ。

 

現代の我々からしても、

そして当時の漢人からしても、

この拓跋珪の行為はむごたらしいものである。

 

しかし相手は、

異民族なのだ。

 

異民族同士の争いではこのような戦いは

普通であっただろう。

 

家畜を奪い、人間を奪い奴隷にする。

できなければ、殺す。

 

戦国時代における秦の白起による

長平の戦い戦勝後の坑殺は有名だが、

あれは、白起が後世から見たところの異民族だからできたことである。

 

白起にとっては当然の判断だが、

中華国家化しようとしていた秦としては、

看過できない政治案件となってしまったのである。

 

異民族・白起からすれば、

こうした弱肉強食のセンスでの戦いは当然である。

拓跋珪の時代でも、このセンスで戦うのはおかしなことではない。

 

こうして、

拓跋珪は異民族ならではの勇猛果敢な弱肉強食の概念で、

異民族と戦い、苛烈に戦い討ち滅ぼしていったのである。

 

 ●拓跋珪の凄さは胡漢を分けて考え融合を目指した点

 

拓跋珪の凄さは、

胡漢、異民族と中華を分けて考え、

それぞれの良さを活かしたところにある。

 

異民族は異民族、中華は中華。

 

それぞれの流儀で戦う。

 

抹殺戦法は酷いと感じるも、

異民族では当たり前である。

 

異民族の視点からすれば、

「魏」のストーリーなどは荒唐無稽なものだ。

 

しかし中華に君臨するには必要なものなのである。

 

繰り返しだが、

胡漢を分けて考え、それぞれ対処した。

これが拓跋珪の凄さである。

 

この拓跋珪のスタンスは以後受け継がれていく。