北魏道武帝拓跋珪。
異民族の皇帝として、数多くの先進的な政策を実施。
拓跋珪は、孫の太武帝に比べると、
あまりピックアップされないが、
五胡十六国時代後半、南北朝、隋唐の歴史を語るには、
必要不可欠な存在である。
- ●不老長寿を求めて錬丹術。
- ●「不老長寿の薬」の薬効。
- ●錬丹術に殺される拓跋珪。
- ●唐太宗の死因もこの「不老長寿の薬」か。
- ●北魏拓跋珪から唐の皇帝まで続く錬丹術の災い。
- ●後漢末発祥の道教が拓跋珪によりようやく国家と結びついた。
先進的な政策を数多く行った拓跋珪。
さらにもう一つ、史上初の事績がある。
拓跋珪は、皇帝として、道士の怪しげな薬を飲んで、
そのために早死した初めてのケースである。
道教と仏教が同時にこの北魏王朝に急速に入っていく。
●不老長寿を求めて錬丹術。
道教において、
錬丹術というのがある。
これは、
不老長寿の薬を生成する術式である。
神丹、金丹、仙丹などと呼ばれるものである。
これを服用すれば長生きできるというものであった。
当然このような効果はないが、
当時これは最先端の「科学」であった。
東晋の初めに、葛洪という人物が
「抱朴子」という書物を著し、記された手法である。
これが北魏まで伝わってきた。
●「鉱物」から「不老長寿の薬」を作る。
この「薬」は、
硫化水銀や水銀、鉛などの鉱物を火にかけて調合するものである。
実際には水銀化合物の辰砂などを使った。(水銀は液体なので扱いにくい)
考えただけで恐ろしいが、
これを煎じて火にかけたものを飲むのである。
※辰砂。主成分は硫化水銀。鮮血色をしている。
血の色をしていたことが健康増進に役立つと当時の人は考えたのだろうか。
●「不老長寿の薬」の薬効。
硫化水銀や水銀、鉛などの鉱物を火にかけて調合した、
「不老長寿の薬」
その実際の効果は、
例えば鉛中毒だと、
下記「鉛中毒 - 25. 外傷と中毒 - MSDマニュアル家庭版」から引用。
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人格の変化、頭痛、感覚の消失、脱力、口の中の金属味、歩行協調障害、
食欲減退、嘔吐、便秘、けいれん性の腹痛、骨や関節の痛み、
高血圧、貧血( 貧血の概要)など
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終了ー
である。
●錬丹術に殺される拓跋珪。
拓跋珪は、この道士の薬を飲んでいたのは間違いがない。
当時、最先端の技術と呼ばれた錬丹術。
それで作られた、最先端の薬「仙丹」を
この先鋭的な思考の、拓跋珪が試さないわけがない。
しかし、死因に関連付けられることがない。
しかしながら、
拓跋珪は輝かしい業績を築き上げながらも、
402年に柴壁の戦いで後秦に大勝してから、
徐々に業績が減っていくのは事実なのである。
最後は409年、
身内に対しても乱暴を働くので、
次男の拓跋紹に殺されてしまった。
病気になるにしても早すぎる。
享年39歳である。
拓跋珪は親征を好み、革新的な改革を進めてきた。
戦いもこなし、非常に健康的で、
さらに果断に勇気ある決断ができる。
健康そのものであることが想定できる。
その人物が突如、
健康を病み、気が狂うというのは、
おかしな話だ。
これは典型的な、道教の錬丹術で作られた「仙丹」の症状である。
道士の怪しげな薬を、最先端の科学だと言われた、
拓跋珪はその先進的な考えから服用してしまった。
これで拓跋珪は早死したのである。
●唐太宗の死因もこの「不老長寿の薬」か。
後に唐代の皇帝は、
複数名、同じように仙丹で命を落としている。
あの健康的な唐の太宗も、
この疑いがある。
唐代まで続くこの仙丹禍。
道武帝拓跋珪以降、
大半の、北魏の皇帝が短命なのは、
このためだ。
北周、北斉の皇帝も同じで、
特に北斉の皇帝があまりにも無茶苦茶なのは、
この仙丹のせいである。
皮肉なことに、
拓跋珪がこの道教の道士が煎じる薬のせいだとは
当時の人は考えなかった。
だから、拓跋珪の諡号には、「道」の字が
当てられている。
拓跋珪は道を保護したので、
あてがわられたのだ。
何とも皮肉な話である。
●北魏拓跋珪から唐の皇帝まで続く錬丹術の災い。
秦の始皇帝もこの仙丹を飲んでいた、という話がある。
しかし、これは、
史記には記載がなく、何らかの憶測と思われる。
旧唐書には唐の皇帝が仙丹中毒であったことが書かれているので、
これの類推であろう。
仙丹の作り方が、
「抱朴子」によってはじめて著された。
これは東晋初のことで、
服用できるのはそれ以後である。
となると、
仙丹服毒死した初めての事例は、
道武帝拓跋珪ということになる。
拓跋珪の先進性が仇と出た。
●後漢末発祥の道教が拓跋珪によりようやく国家と結びついた。
道教が皇帝、国家と結びつくのが、
拓跋珪が初めてともいえる。
西晋、東晋においては、
三国志の張魯で有名な五斗米道が流行した。
後に天師道へと名を変える。
西晋においては、宗族で狭義の八王の乱を勃発させる
司馬倫は天師道を奉じていた孫秀(教祖の一族)を側近として登用。
司馬倫自身も天師道を信奉していた。
東晋末には、
天師道が庶民に浸透し、孫恩の乱を起こす。
孫恩は孫秀の子孫であり、
天師道の教祖として、民衆を蜂起させた。
このように、五胡十六国時代において、
道教は徐々に浸透していったが、
華北の異民族国家への浸透は遅れていた。
それが100年遅れて、
ようやく異民族皇帝拓跋珪に辿り着いたのである。