- ●「斉桓晋文」
- ●経済力のある中原諸国、軍事力を欲する。
- ●中原の経済力と斉桓公の軍事力が結びつく。
- ●僻地・晋だからこそ軍事力がある。
- ●晋が周の守護者の地位を保ったのは、晋公に力がなかったからという逆説
●「斉桓晋文」
春秋五覇の中で、
斉桓公、晋文公は別物である。
両者を、「斉桓晋文」とも呼び、
ほかの春秋五覇とは別格である。
実は春秋五覇とは、戦国時代の各国が
自国の正当性を主張するために作られた概念である。
春秋五覇自体は、
政治的プロパガンダ、つまり大義名分を
標榜するための道具に過ぎず、
実際の歴史的事実にそのまま当てはめにくい概念である。
だが、「斉桓晋文」は、
本稿のタイトル通り、周の守護者である。
斉桓公は一代でその地位を降りたが、
晋文公は、文公以降事実上世襲することとなる。
●経済力のある中原諸国、軍事力を欲する。
元々晋は後進国であった。
中華の中心、中原から見たら、
僻地であった。文明度の低い田舎であった。
いわゆる中原というのは、
中華における交易の中心地のことである。
それは黄河を南北に渡河できる地点のことを指す。
南北、および東西の物資が、
黄河を渡河することで交易ができる。
具体的な場所は、
現在の洛陽から開封までのことを指す。
このあたりを春秋時代に押さえていたのは、
東周、鄭、衛である。
しかしながら、
これらは基本的に交易都市、文化都市を持つのみで、
軍馬や武器の生産という意味で、
弱みを持つ。
そこで、
これらの国の東にある
魯や宋という国の影響を持つ。
元々、周という国は関中平野において、
軍馬の調達や武器の生産を行って軍事力を確保し、
洛陽で交易という経済活動を行う、
という構造を持っていた。
しかし、春秋時代の周は関中平野を失ったので、
軍事力のある国の後ろ盾が必要になった。
周辺諸国の連合で当初は
凌いでいたが、
そのうち北から北狄、
南から楚が勢力を伸ばし、
それだけでは対処しきれなくなってしまった。
そこで出てきたのが斉の桓公である。
●中原の経済力と斉桓公の軍事力が結びつく。
周王朝の諸侯の中では
外縁部に位置する斉。
馬の産地にも近く、
近いということは馬を安く調達できる。
山もあるので鉱物も取れるので、
武器の生産も可能である。
東に東夷という夷狄がいるので、
国民は戦いに慣れている。
中原諸国よりは勇敢な民が多い。
そこに、
斉の桓公と管仲という
セットが生まれ、
周王朝、中原諸国の守護者となる。
中原諸国の守護者=覇者と呼ぶ。
しかし、これは斉の桓公の一代のみであった。
●僻地・晋だからこそ軍事力がある。
春秋五覇というが、これは戦国時代にできた概念で、
当然斉の桓公の時にはこういう概念はない。
周王朝の守護者は斉の桓公で
終わる話であった。
斉の桓公は
後継者選びで失敗し、
斉は混乱する。
斉は守護者の地位を世襲できなかった。
一方、
このころ勃興していたのが
晋である。
晋は現在の山西省を地盤とする。
中原からは、
山と河を隔てた僻地である。
晋のエリアには
軍馬の産地があり、高い軍事力を擁する。
合わせて、
周王朝の、
若干の都市文明の進出もあり、
中華文明への馴染み度合いもそこそこ。
斉の桓公の死後、
南方の楚の脅威が増していた周は、
この晋に助けを求めた。
これに見事に応えたのが、
晋の文公である。
●晋が周の守護者の地位を保ったのは、晋公に力がなかったからという逆説
晋の文公は、
周の守護者=春秋五覇になったのち、
早々に死去するが、
周の守護者の地位は、
晋が世襲した。
これは、
斉の桓公のように、
後継者選びで失敗しなかったからではなかった。
その理由は、
晋の君主自身に権力が集中していなかったことにある。
晋の文公は、
父晋献公の代に起きた身内争いをきっかけにして、
ことごとく親戚が死去していた。
そこで晋の文公が頼りにしたのは、
流浪中に自身を支えてくれた臣下であった。
特に狐偃と趙衰は、
外戚筋である。
これら、晋の文公の側近が力を握り、
この構造が晋文公の死後も続くことになる。
晋の文公と側近の個人的友誼がきっかけだが、
時が流れればその友誼は当然なくなる。
晋の君主を支える身内が少ないことで
臣下筋の家が力を握ることになる。
この臣下筋の家が、
入れ替わり立ち替わり、
晋の事実上の最高権力者として、
晋を掌握。
周の守護者としての役割も執行することになる。
この事実上の最高権力者は、
晋の臣下同士での弱肉強食争いであり、
実力のあるものがこの地位に就く。
そのために、
春秋時代の末期まで、
晋は、周の守護者としての地位を保持し続けることができたのである。