歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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元号とは。

「平成」から「令和」への改元。

日本では、明治維新以来、一世一元の制、

すなわち、一代の天皇において、

一つの元号のみとするとされたので、

非常に歴史的なことである。

 

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ウィキペディアより画像引用。

そのため本来の改元は、

天皇の崩御に伴うもの、というのが日本国憲法の前提である。

 

 

しかし今回は、

現上皇(2019年5月2日時点。ここの呼称も非常に難しい)の意思による譲位

(憲法上は退位、および憲法上の皇太子即位)

であるため、

世紀のイベントと言ってもいい、

歴史的なことである。

 

●時さえも支配する中華皇帝と天皇。

 

そもそも元号とはなにか。

これは、

皇帝、もしくは天皇という存在が、

時を所有するという概念から由来する。

 

皇帝および天皇は、

万物の支配者であり、時すらも所有する。

 

元々は、

元号という呼称の制度ではなかった。

 

例えば、

秦の始皇帝の時代は、

例えば、秦始皇元年、秦始皇二年、秦始皇三年、、、

と呼ぶ。

 

戦国時代においては、

下記は例えばであるが、

魏王二年、

韓王五年、

というように、

それぞれの国で数え方が異なる。

 

それぞれの土地、民の所有者である王が、

時代を数えるのである。

のちに、この戦国時代の王という概念が、

秦の始皇帝によって「皇帝」に昇華する。

 

このように、

中国と日本においては、

伝統的に、皇帝および天皇が時を支配するという

国家概念なのである。

 

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●西欧の年号が西暦。

 

なお、

比較として出すが、

西欧では、イエス・キリストが

時代を支配するという概念である。

だから、西暦を使う。

これはイエス・キリストの生誕をもとにしている。

(実際は西暦4年生まれだが。)

救世主イエス・キリストが生まれたことで、

キリストという時代が2019年間続いているという

意味では、

西欧と中国・日本も考えの大元はあまり変わらない。

西欧の時はキリストが支配するということである。

 

少し本稿の本題と逸れるが、

キリスト教国でもない日本が西暦を使うのは、

おかしいという考えは上記から出てくる。

 

本来は和暦、つまり令和元年が日本国としての

時の数え方なので、元号は必要となる。

ただ、西暦はもはや万国共通の概念になりつつあり、

便利なので便宜上使用するわけである。

 

中国では中華人民共和国成立からは西暦、

それまでの中華民国では、

民国元年、二年、三年、、、とかいう。

 

●中国における元号の由来。

 

さて、元号だが、

元号という概念を作ったのは前漢武帝だ。

 

時の数え方も徐々に変わり、

武帝の父、景帝は

改元をしているが、

改元をすると、

「中元年、中二年、、、」となる。

もう一度改元すると、

「後元年、後二年、、、」となった。

 

これを、

前漢武帝は元号という制度を採用し、

時の数え方に名前をつける。

 

はじめの元号は「建元」である。

「建元元年、建元二年、、、」

という形になるとわかりやすい。

 

これが明の朱元璋まで続く。

朱元璋は一世一元の制を採用。

ひとりの皇帝に一つの元号とした。

 

元号はそれぞれの時代の呼称であるが、

凶兆があると改元をする。

戦争や疫病、また日食などで改元する。

時代が悪くなったということで、

良い時代を期待して、新しい時代を作る、

すなわち改元するということになった。

 

なので、

短期間の元号が、

乱発されることになる。

このために朱元璋は一世一元の制を採用した。

 

●日本の元号、天皇号の位置付け

 

日本における元号のはじまりは、

645年の「大化」である。

 

このあたりの政治状況を説明するのは、

非常に難しいが、

簡単に言うと、この年の大化の改新において、

反中華(当時は唐)勢力が日本で政権獲得したのである。

 

本来、

中華と友好を結ぶには、

中華皇帝の元号を使う必要がある。

中華皇帝は、

万物のあるところすべて自己の所有である。

時代、時も所有するので、

中華と友好を結ぶには、

中華皇帝の元号を使わなくてはならない。

 

しかし、

大化の改新において、

元号「大化」を使い始めたということは、

中華世界からの独立を示す。

 

※なお、このときの最高権力者は、

教科書レベルでは、

中大兄皇子だが、

このときの天皇もしくは大王が誰なのか、

はたまたこの大化の改新が行われたのが、

日本なのか倭なのかは、諸説ありすぎて、

ここでは触れられないので、

ぼかして説明する。

 

当時の唐は、

唐太宗という名君の時代だったが、

朝鮮半島の高句麗を支配できず、

日本まで勢力を伸ばしていなかった。

 

そのため、こうした反中華的行動が日本はできた。

 

中華世界からの独立、

これが大化の改新とも言える。

 

そうして、

660年白村江の戦いで、

日本は、唐太宗の息子、唐高宗および則天武后の中華帝国唐と

戦い、大敗する。

 

中大兄皇子は、難波宮(つまり大阪)

に都を置いていたが、

大敗を受け、大津宮(つまり滋賀の大津)に遷都。

 

唐に大敗したので侵攻を恐れて、

後背地へ遷都。

 

668年に高句麗は唐により完全滅亡させられるが、

同年、中大兄皇子は天皇号を使用開始。

(上記は岡田英弘氏説によるが、

唐高宗が天皇号を使い始めたのが、673年で、

同年に即位した天武天皇が始めて天皇号を使い始めたという

説もある。)

 

こうして、

事実を書き連ねると、

天智天皇、中大兄皇子が

バリバリの反中華派であったことが

わかる。

 

のちに、

唐に対しては、

事実上の屈服という形で

講和。

 

しかし、唐は高宗が病気に倒れ、

則天武后が勢力を拡大し、

内部対立を孕むようになる。

 

中華・唐帝国の、

日本に対する影響力が下がることで、

日本は「こっそり」元号を使う。

 

国内的には元号を使い、

対外的には、

多分に遣唐使の書状は、

唐の元号を使ったのであろう。

 

天皇号も奈良時代までは使われたようだが、

その後は、「院」と呼ばれる。

 

平安時代においては、

国内でも王としての扱いであり、

それは蓮華王院の「王」という名前からもわかる。

数年前の、NHK大河ドラマ「平清盛」においても、

天皇は王、と呼ばれているので、

国家としてもある程度は認めつつあるのだろう。

 

現代から200年前の、光格天皇(江戸後期)により、

天皇号が復活するまでは使わなかったのである。

19世紀前半のことである。

日本国内の思想としては、

天皇という存在が本来の主権とされつつあり、

対外的には、

近代中華皇帝や、西欧皇帝などの絶対君主制が

確立されていたこともあり、

日本もそれを模倣したのだろう。

 

しかし、

元号は使われた。

 

この辺が日本の曖昧模糊な部分だが、

中国と交流が途絶することもある中、

利便性の部分もあり、

元号は使われたのだと私は思う。

 

明治維新を経て、

日本も中国から500年遅れて

一世一元の制が採用された。

 

明治以後戦前までの日本天皇は、

まさに絶対君主制の中華皇帝と

同様の権力構造であるから、

東アジアの君主としては

中華皇帝の形を採用して、

実際は、西欧皇帝の姿を追求した。

 

ここに、

天皇と元号という存在が日本で

イコールとなる。

 

最後は、

西欧君主の概念が

天皇制に入ってくる。

 

日本の天皇制は、

中国を起源とし、

反中華的思想も持つ。

そして近代においては、

西欧君主の概念も入ってくる。

 

日本の場合は、

他国の概念の輸入なので、

原理原則にとらわれなかったとも言える。

 

しかし、ここまで模倣し続けると、

今となっては、

天皇号も元号も、もはや日本オリジナルと言える。

 

説明するにも、

由来ベースでしか説明できないので、

柔軟に変更しやすいのが、

我が日本の良さか。