歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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南が「中国」~三国志・蜀漢の重要性~

=南が「中国」、江南が「中国」=

 

何を「中国」と見るのか。

これは案外と難しいテーマである。

 

中国大陸において、様々な王朝の勃興はあった。

 

しかし、文王・武王の周王朝でさえ、

後の中国から見れば異民族の可能性がある。

 

春秋戦国時代の間は、周王朝を中心とした秩序の争いであった。

 

その後、秦が周王朝が打ち立てた秩序を打倒。

新しい秩序を設立しきれず、漢に至る。

 

漢は、いわゆる中国の民族「漢民族」の名前にも使われるように、

いわゆる中国を象徴する王朝となった。

 

中国だったり、中原だったりにいる人は、漢王朝が基礎とした史観になる。

 

特に漢は、新の王莽に打倒された後、

光武帝・劉秀に復興されている。

 

これは伝説になりやすい事実だ。

漢王朝がゆるぎない王朝になった由縁のひとつであろう。

 

その後、184年の黄巾の乱を経て、

三国時代に入る。

 

その中の一つ、劉備の蜀は、

王朝としては、漢を名乗った。

自身としては、蜀と名乗るのではなく、漢と名乗った。

漢王朝絶対主義である。

孟子の易姓革命を許さないスタンス。

そのため、劉備のこの王朝は、蜀漢とか季漢(末っ子の漢という意味)とか、のちに

呼ばれる。

 

ここからは歴史観によって見方が変わる。

非常に興味深い。

 

曹氏の魏は、後漢・献帝から禅譲され、魏王朝を建てた。易姓革命の成立である。

しかし劉備の蜀漢は、それを認めず、漢王朝の継続を拠り所とした。

 

263年に魏は蜀漢を滅ぼした。「漢王朝」という概念が本当になくなった。

しかし、魏の最高権力者・司馬炎が魏・元帝から禅譲され、晋王朝が建てられる。

 

「漢王朝」という概念を滅ぼした魏を晋が倒した、つまり「漢王朝」の継承者だ、

という理屈を言い始める。

これは実際には、313年から316年あたりの永嘉の乱後、

今の南京に逃げた東晋時代、時の権力者で禅譲を狙っていた桓温に対する

牽制の理論と言われている。

 

漢晋春秋(東晋の習鑿歯によって編纂された歴史書)は

そのための書物と言われている。

 

また当時の五胡十六国時代、華北は全く異民族(これものちには曖昧な線引きとなるが)の王朝であった。

 

本来は東晋こそが漢民族、中華を統べるものである、という主張だったが、

後に中華を統一したのは、隋であった(589年)

 

隋の楊堅は、確実に異民族・鮮卑系の北周の高官(八柱国)であったから、

異民族の可能性が高い。(諸説あり、後漢の楊震の末裔という話もあるが、華北は元の漢民族を、

散々五胡が追い回してしまったし、異民族も定住してしまったので、どれが漢民族で、

どれが異民族だったかわからなくなってしまった。)

 

結構な人たちが長江流域(江南)へ逃亡してしまったので、

華北に残った人たち含めて差別的な見方もあったゆえの理屈だ。

 

その後も唐も同じく、北周の十六将軍の一人。

ちなみに隋の楊氏と親戚でもある。

 

五代十国もやはり北方民族の時代。

宋もそれを受け継ぐ。

金・モンゴル・元に中国大陸は蹂躙されるが、

これらが漢民族ではないのは自明である。

 

そうして、ついに現れたのが、江南出身の朱元璋が建国した明である。

 

明は北方の元を蹴散らしたのである。

南方出身なので北方民族ではない。

漢民族の王朝である。

そこで生まれたのが、蜀漢正統論、蜀漢正閏論である。

三国時代の魏を正統とするのではなく、蜀漢を正統として、

明はそれ受け継ぐ。

漢民族の王朝であると。

 

当然明を打倒したのは、満州族(女真族。金を創始した民族でもある)は北方民族である。

 

清を打倒したのは、

孫文。その後蒋介石。いずれも江南の出身。

中華人民共和国も毛沢東は湖南省(昔の楚、荊州)の出身。

 

これは明を受け継ぐわけである。つまり漢民族の国だと。

これこそが中華、中国だと。

歴史は今に続くわけである。