歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉邦 漢中からの攻め方

孔明以前に漢中・関中で出兵した人たちはどのルートを通ったか。

劉邦は、「暗渡陳倉」である。

「明修桟道、暗渡陳倉」ともいう。三十六計の八つ目。

項羽に嫌われた劉邦は、漢中に封じられる(紀元前206年)が、

蜀の桟道(斜谷道・褒斜道)を焼いてしまう。

蜀の桟道は、崖に真横に木でできた杭を道にして通る。

楚漢期においては、この蜀の桟道がメインルートだった。

 

 

※蜀の桟道・・・

秦の恵文王(在位  338年~前311年)の時代に、蜀王を騙して作らせた道。

秦で初めて王号を称えた王。

恵文王は商鞅を粛清、張儀を登用、巴蜀を併合した。

 

これを焼いてしまうというのは攻めません、反乱を起こしませんという

意思表明だった。

 

 

しかし状況が変わると、大っぴらに蜀の桟道の改築しなおす。

それを見せかけとして、実際には故道を通って、

陳倉へ電撃戦を仕掛けたという話。その後章邯を見事滅ぼして関中を制圧した。

韓信の策だ。

 

劉邦 関中進撃ルート


尚、陽平関は、前漢時代に造られたので、劉邦関中進撃の際には、存在しない。