後漢の光武帝劉秀は、
33年に隴の隗囂(カイゴウ)をうち隴を制圧。
その後、岐山・武都経由で漢中に進出、
最終的に蜀の公孫述を滅ぼした。(36年)
隴・蜀征討軍の総大将は来歙(ライキュウ)。
32年に来歙は略陽を急襲。33年には天水を攻略。
34年に冀を陥落させ、
35年に下弁に至る。
ここで来歙は公孫述の刺客により死去する。
※来歙・・・世に出る前の光武帝劉秀を
何かと面倒を見てくれた遠い親戚。
来歙の嫡孫は、明帝の公主(すなわち光武帝の孫)を妻としている。
魏の曹操は、
214年に韓遂を討って(韓遂の敗死は215年)隴を制し、
215年に漢中の張魯を攻めた。
曹操が張魯を攻めたときのルートは、
故道。陽平関の戦いを経て、漢中を獲得する。