漢人にとっての異民族とは、
自分たちと習俗の違うものたちのことである。
そもそも漢の劉邦が紀元前200年に
白登山で冒頓単于に敗れてから因縁は始まる。
そもそも異民族とは何か。
牧畜を生業にしていた匈奴と、
農耕民の漢人では明確に分かれていた。
しかし、前漢初期でも匈奴に亡命する漢人はいたわけで、
果たして種族として異民族が漢人とどれだけ違うのかは疑問である。
一言でいえば習俗の違いである。
そして、漢人が白登山で敗れたことが、
異民族を嫌悪し、犬馬のごとく扱うという大きなきっかけになった。
漢人・中華の英雄・劉邦を一敗地に塗れた異民族憎しというわけだ。
趙・武霊王の時代、胡服騎射に対しての強い反発はあったので、
昔から差別感情はあった。一方でまだ異民族の良いところを取り入れようという考え方もあった。
後の鮮卑は、漢人の良いところを取り入れようとした。
鮮卑は牧主農副(江上波夫氏による)で、漢人の豊かさに憧れた。
結果、中国にとって初めての征服国家である、鮮卑の拓跋魏(北魏)は遊牧民の習慣を捨てて、
漢化するのである。(その拓跋魏は最後は異民族(?)に滅ぼされた。)
それに続く隋唐は岡田英弘氏の説によると、
言語面からこれら創業者も鮮卑であるという。
永嘉の乱(304年~316年。※きっかけとなった劉淵は南匈奴単于の末裔。曹操の時に南匈奴は降伏した)の後、
異民族の華北への侵略が甚だしかった。
元々の漢人は、南に逃げるか殺戮された。
異民族は略奪するだけ略奪しつくした。
漢人を幾分か尊重する拓跋魏の登場まで、略奪・殺戮は終わらなかったのである。
実に100年以上。
華北の民族構成が変わるのも無理もない。
華北は異民族に蹂躙された。
漢人は南、主に江南に逃げた。
南北朝時代の六朝が漢人国家だと。
北朝は異民族である。
隋唐は鮮卑。漢人になりたくて、結局なった鮮卑のため、
彼らは自分たちを異民族としてではなく、漢人として扱った。
だから隋唐から異民族という位置づけが見えなくなった。
これに続く北宋もやはり華北出身だから、
由来をたどれば異民族となるのである。
元はもちろんモンゴル。
江南からたった明の朱元璋がようやく漢人として
中華統一を果たすという流れになる。
清は満州族。
これを打倒したのは南方出身の孫文。漢人だ。