歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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漢民族の理想のストーリー~曹操・司馬師・司馬昭は許せない~

◆後趙の石勒

「曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、

狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」(晋書?)

 

◆東晋の明帝

王導から司馬昭・司馬炎の簒奪の経緯を知り、

顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」

(世説新語・南朝宋の劉義慶)

 

◆東晋の桓温

「わしは芳名を残すこともできず、

かといって景文(司馬師と司馬昭)の臭も残せんのか。」(世説新語・南朝宋の劉義慶)

 

 

曹操と司馬師・司馬昭兄弟の評価は散々だ。

五胡十六国時代から叩かれる存在。

両者とも、自身が皇帝にならず、

周文王の事績に習ったにもかかわらずだ。

 

なぜか。

それは、

曹操は漢を実質的に滅ぼしたからだ。

漢民族としては漢はルーツ。

そして司馬師・司馬昭は、

その曹操のやり方に追随した。

曹魏を積極的に守ろうとしなかった。

 

漢は後々漢民族の伝説的王朝。

漢民族の原点。

自分たちのルーツだ。

 

それを滅ぼした曹操は容認しえない。

実際に滅ぼした魏文帝・曹丕が批判の対象でないところも

面白い。

 

曹操は自身が宦官の孫という脛に傷のあるルーツを持っている。

だからこそ、自分を厳しく律した。

かつてないほど、また曹操の後にも誰も追随できないくらい。

文武に長け、詩にも長じ(横槊の詩人)

法に厳格であった。

死に臨んで、自身の陵墓は薄葬にするようにと遺言する、

 

 

 

当時の大半の知識人に支持されたのにだ。

 

曹操は周文王にならい、魏王として死んだ。

 

献帝は許昌に据え、自身は鄴を本拠地とした。

献帝の漢室と、自身の魏室を別にして献帝を尊重した。

 

曹操は何度も献帝に暗殺されそうになったが、

献帝自身には報復しなかった。

 

知れば知るほどに中国にとっての理想的な指導者なのに評価は低い。

 

漢民族というアイデンティティは客観的判断すら麻痺させる。

漢民族は、漢民族としてのストーリーを優先する。

 

司馬師・司馬昭はあまりにもスムーズすぎた。

魏がいまいちだったというのもあるのだろうが、

もう少し前漢や後漢の権力者のように

何回か権力者が現れては消え、というのを

やってほしかったのであろう。

 

あっさりしすぎて物語性に乏しい。

 

もがきが欲しいところだ。

 

 

一方隋の楊堅まで時代が下ると、

禅譲なのか簒奪なのかすら、話題にもならない。

 

 

永嘉の乱の前までと後では、

世界が違うのだ。

 

永嘉の乱の前の伝説の世界は漢民族の理想であって欲しいのだ。

 

簒奪者に厳しい。リアリストに厳しいのだ。