紀元前200年の白登山の戦い(代)に始まる、
匈奴と漢の因縁。
命からがら撤退した高祖劉邦は、
匈奴と和睦をする。
兄弟の誓いをし、前漢は弟分となる。
毎年貢納をする。資料では億単位の銭を貢納していたらしい。
また交易を認める。
前漢は匈奴の下風に立ち、ここに異民族との因縁の歴史が始まる。
前漢にとっては屈辱的な結果となった。
匈奴は冒頓単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)とその息子で後継者の老上単于(在位:紀元前174年 - 紀元前161年)の時代に、
勃興期かつ最盛期を迎える。
老上単于の息子・軍臣単于(在位:紀元前161年 - 紀元前127年)の時には、
上郡(今のオルドス・延安方面)と雲中郡(フフホト周辺)に侵入。
一時、前漢の文帝(在位:前180年 - 前157年)が匈奴遠征を決意するも、
取りやめ、隠忍自重の時を過ごす。
ここで前漢の武帝(在位:前141年 - 前87年)が登場する。
武帝の祖父と父の、文帝・景帝(在位:前156年 - 前141年)が「文景の治」
と呼ばれる治世を行った。質素倹約を旨とし、重農政策を取った。
内政を充実させ、まだまだまとめ切れていなかった、
国内を呉楚七国の乱(紀元前154年)などで徐々に地方まで完全支配できるようになった。
※前漢は当初郡国制を敷いていた。
直轄地と、専ら遠隔の土地に諸侯を封じ諸侯領を両立させた。
諸侯領は周の時代や春秋戦国時代と同様、各諸侯を通じて、
皇帝は税を得る。コントロールが上記の時代のようにつかなくなったら、
税を得ることはできなくなり、自立してしまう。
秦が戦国時代を勝ち切った一つの要因として、
中央集権が進んでいたことが挙げられる。
その成功要因を考えると、前漢としては中央集権、郡県制を推進するほかない。
紀元前141年に武帝は即位する。
意外だが、武帝は実は庶子だ。
それも十男である。
一説によると、この武帝のコンプレックスが匈奴への遠征につながったとみる向きもある。
そう言われてみると、
後年の光武帝劉秀や蜀漢昭烈帝劉備はそれぞれ、
景帝の子、武帝の兄弟に連なっている。
三国志に出てくる、蜀に割拠した劉焉・劉璋や荊州の劉表も同様である。
何か色々ありそうだ。
とにかく武帝は、匈奴に雪辱を晴らすべく動いた。
衛青と霍去病の功績により、
匈奴をゴビ以北に撤退させた。
九原(包頭・バヤンノール周辺)・雲中(フフホト周辺)を確保。
その北に陰山山脈があり、そのさらに北にゴビ砂漠がある。
そのゴビ砂漠の北に匈奴を追いやった。
この後匈奴は内乱が起きる。
非匈奴系の氏族の離反や、匈奴内での争いにより、
一時匈奴は東西に分裂する。
呼韓邪単于はこの内乱に勝利するために、
紀元前51年、漢に呼韓邪単于自身が入朝、前漢に服属する。(前漢宣帝の時代)
この時の前漢皇帝は宣帝(紀元前74年-紀元前48)
武帝死後混乱が続いていたのを最終的には権力者霍光の死後一族を族滅して
皇帝権力を取り戻した中興の祖。
前漢のバックアップを得た呼韓邪単于は匈奴を再統一する。
王昭君が嫁いだのはこの呼韓邪単于だ。
宣帝の次代元帝のときである。
※前漢皇室との通婚は冒頓単于のころから行われている。
人質に近いもの。老上単于の妻(匈奴では閼氏という)に漢の公主(皇帝の娘)がいる。
こののち、漢は新の王莽と赤眉の乱などの混乱期を挟む。
これにより、復興した漢(後漢)に服属するかしないかで、
匈奴内が対立。最終的には48年に南北に分裂する。
南匈奴は醢落尸逐鞮単于。呼韓邪単于の孫にあたる。
51年に後漢に服属した。
後漢の指示で、五原郡(今の包頭・バヤンノール周辺)に王庭に置くこととなった。
91年に後漢の大将軍竇憲が南匈奴を従えて、
北匈奴を討伐、滅亡に追い込んだ。
ここに漢と匈奴の戦いは約300年かかって漢の勝利に終わる。