歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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黄河の流路は移り変わる。

 

だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観 (PHP新書)

参考図書の一つ。

滎陽の重要性 官渡の重要性

 

今の「黄河」は昔からの黄河ではない。

黄河の流域は時代によって異なっていた。

 

今黄河が流れている場所は、済水と言われていた。

黄河は、今の天津の方に流れていた。

 

劉邦が楚漢戦争時に拠点を置いたのは滎陽。滎陽は黄河渡河の重要拠点であった。

洛陽の東にある。今の鄭州市の東隣だ。

何故重要だったのか。

この時代の黄河は、この滎陽の東で、二俣に分かれるからだ。

黄河と済水に分かれる。

つまり軍勢が渡河するときには、滎陽より東は、二回河を渡らなくてはならない。

浮橋を作る、舟を調達するなど手間も費用も掛かる。

滎陽はそれが必要がない。

滎陽から見て、北エリアと南エリアの結節点にあたるのである。

両者を押さえるのにこれほど良い場所はない。

 

200年の官渡の戦い。

北の袁紹と南の曹操が河を挟んでの決戦に及んだ。

この河。勘違いしやすいが、これは済水である。

袁紹は鄴を本拠地としていたが、これは黄河の北にあたる。

そこから南へ黄河を渡河し、済水の際まで勢力圏を持っていた。

 

曹操はこの官渡の東西、西は洛陽、長安、東は今の泰山西麓の城までを

勢力図としていた。

北は黄河の線が境で、東は泰山、西は洛陽、函谷関、そして長安は

経緯上ちょっとした飛び地である。

このような勢力の描き方である。

 

黄河流路の変化に合わせて、要地が変わる。

 

官渡は、現在の河南省中牟の近くである。

今で言うと鄭州市である。

今の鄭州市の南隣の新鄭市が、春秋時代の鄭と戦国時代の韓が首都を置いた新鄭である。

河南省中牟と言えば、今は少し場所は違うが、中牟は戦国時代の趙が、

邯鄲の前に首都を置いた場所でもある。

今の鄭州市、昔の官渡の東が、開封である。もちろん北宋の首都である。

戦国時代には大梁と呼ばれ、魏の首都であった。

隋の煬帝が大運河を作ったときから

飛躍的に開封の重要度が高まった。

このとき煬帝の時代につなげたのはやはり済水。

 

どうも黄河といっても一本ではない。

 

ここで、岡田英弘氏著「だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観 (PHP新書)」から

引用する。

 

 

「古くは黄河の下流は、

開封市の北方で多くの支流にわかれて、

北は北京市から南は徐州市に至る河北省、山東省の平原に網の目の

ごとく、ひろがっていた。

これを九河という。

そしてこうした多数の分流の形成するデルタを九州と呼んだ。」

 

黄河というのは、滎陽から二つに分かれ、

そのうちたくさんの河に分かれて東シナ海、渤海湾まで流れていった。

そこはデルタである。ナイル川のデルタ地帯である

エジプト・カイロ周辺から北のアレクサンドリアと同じだ。

あちらはくっきりと三角州になっているが。

 

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(引用元:山川世界史総合図録 山川出版社) 

黄河 西周時代と現代の流路
黄河 流路の変遷

 

 

この滎陽から東は平たく言うと水浸しだ。

そう考えると、色々と思いつくことがある。

 

不毛の地黄河デルタと周囲の地形

 

上記をテーマに下記にまず4点事例を挙げたい。

 

・魯の伯禽が封じられたのは泰山の西麓曲阜。

この魯、曲阜が、黄河デルタ地帯の中で、

唯一山地があるところで、

西が洛邑(洛陽)、東は曲阜で一つの線を作り、

その間にある黄河、済水流域周辺を統治するという

絶好の場所になる。

やまのふもとなので、洪水から逃れられる。

水浸しのエリアの真ん中が曲阜なので、周公旦の息子が

封じられた。

 

・斉は「東夷」であったわけ。

斉が東夷なのだろうというのは、ここが東端だから理解はできる。

しかし、戦国時代の臨淄の賑わいを考えると、疑問が残る。

臨淄は淄水のほとりにあるのだが、

ここは洛陽から見ると、

水浸しの黄河デルタを乗り越えてこなくてはならない。

水浸しでぬかるんでいるから、

馬や馬車、戦車の通行も容易ではない。

西周時代には、ここは領域外であったのだ。

それで、制圧するため、太公望呂尚が封じられた。

黄河、済水の東の山東半島は、

万里の長城の北のようなものだった。

太公望は異民族征伐のために使わされて見事

支配しきったわけである。

早期の制圧を目指したため、多種多様なやり方を

認めた。

一方魯の伯禽は、

周王朝の威光が中原に及ぶための国なので、

周のルールに厳格な統治を行った。

周王朝の中原支配の布石なので。

 

・戦国時代の趙の首都が邯鄲なのは。

黄河の流域を考えると、邯鄲がとても重要な場所なのがわかる。

趙は東の国境を黄河としている。

そして、太行山脈沿いに城を持っていて、

その真ん中に邯鄲がある。

ちなみに邯鄲のそばが曹操が本拠を置いた鄴だ。

邯鄲は南に下がり黄河を渡河すれば洛陽・滎陽に至る。

鄴から北に行けば幽州、北京市周辺に行くことができる。

また山を越える必要があるが代や晋陽にも行ける。

意外と交通のど真ん中である。

そしてこれが最も重要だが、

東には敵がいない。

 

実はそうなのだ。

 

再度、ここで、岡田英弘氏著「だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観 (PHP新書)」を

引用する。

 

「この地域(引用者注:黄河デルタ)では海抜高度が極めて低いために

地下水位は高いが、

塩分を多くふくんで水質が悪く、人の飲用に適する水を

得ることが困難である。」

 

今でも黄河デルタは人口は少ない。

都市がまばらになる。

歴史上もこのあたりには有名な城はない。

趙、邯鄲から見て、東の黄河から済水までは、

無人と言っていいエリアだった。

その大きな空白地帯を挟んで、斉に至るわけである。

 

・斉が強い理由。

なので、西に済水、そしてその西には人口過疎、無人地帯と言ってもいいエリア、

そうして南に泰山山塊が控え、北と東は海だ。

ここも秦の関中、晋の山西高原と同様、籠れるエリアなわけだ。

守るに易く、攻めるに難いエリアと言える。

唯一接するのが魯であり、山を挟んで、あまり友好的でないのも

理解できる。