歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか②~「魏」との関連を探る。~

 

「鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか①」では、

拓跋珪が「魏」という国号にしたのは漢人であるとしたい

ということから拓跋珪の真意が隠されていること、

国号の決め方には実は2パターンあること、

について説明した。

 

この記事では、鮮卑拓跋氏、拓跋珪と、

魏との関係性を検証する。

その上で、国号が何故魏になったかを探る。

 

●拓跋珪は、何を根拠に魏としたか。

 

 そもそも、鮮卑拓跋氏や拓跋珪は、「魏」という名前と

関係があるのか。

 

結論、ない。

しかし実は少しだけ「ある」。

 この「ある」に言及する前に、

オーソドックスなアプローチとして、

ほかの国号は何故該当しなかったのかをここで考えたい。

 

●なぜ、封地の「代」ではいけなかったのか。

 

まず、

封地名ではない。

封地名でいくのなら、「代」である。

 

この代という国号は、

鮮卑拓跋氏にとっては輝かしい成果の一つである。

 

拓跋珪の先祖、拓跋猗盧の時に、

西晋皇帝愍帝から正式に贈られた。

異民族として初の快挙である。

 

本当ならこれを取るべきなのだろう。

 

しかし、実は代は少しイマイチである。

代は戦国時代、趙に滅ぼされた。異民族の地であった。

一文字の国名とはいえ、少々格の落ちるものである。

そして異民族の地であることが明確である。

漢族の蔑視が少々入る名前である。

 

●封地視点では「魏」は使えない。

 

魏という国名は戦国七雄の一つである。

だからこれにしたかったという考えもあるかもしれない。

 

しかし封地として考えるにも、

魏に全く由来がない。

 

魏という地名は、当時においては、

鄴周辺である。

これは、前漢時代、ここに魏郡というのが置かれたためである。

 

だから後に、ここを本拠地にした冉閔は魏を名乗るのである。

 

拓跋珪はこの鄴周辺すら支配していない。

やはり関係がない。

 

戦国七雄の魏は、その後半期、大梁を王都としていた。

現代の開封市である。

ここも拓跋珪とは関係がない。

拓跋珪の生涯において、ここまで行ったこともない。

 

実は魏というのは、

そもそもの場所は河東にあった。

いまの夏県周辺である。

 

ここを春秋時代の晋の献公が滅ぼした。

その時に晋の献公の車右の畢万(ひつまん)の活躍が目覚ましかった。

それに報いるために晋献公は畢万にこの魏を与えた。

こののち、畢万は魏万と言われるようになる。

これが戦国七雄魏の先祖である。

 

しかしながら、

これも拓跋珪には関係がない。

402年に柴壁の戦いで平陽を後秦から獲ったとはいえ、

この上記の夏県周辺の魏にまで手は及んでいない。

 

やはり、拓跋珪は封地としての魏には関係がないのである。

 

●趙でもよかったのではないか。

 

一方、上記の代の由来であれば、趙でもいいのではないか。

趙を滅ぼしたのは代。代は趙ともいえる。

 

しかし、趙も微妙なところである。

趙は、由来がどうにも異民族の雰囲気がある。

そもそも、趙の祖、趙衰は狄の出自であるし、

武霊王は胡服騎射で、異民族の風習を取り入れた人物だ。

我々現代の人間からすれば武霊王は革新的な英雄だが、

漢族からすれば、差別の対象でしかない。

 

さらに、

趙は拓跋珪の生きる五胡十六国時代において既に使われていた。

前趙と後趙である。

それぞれ劉曜、石勒が創った国である、

両者ともすでに滅んでいた。

 

拓跋珪が名乗るにしても両者とのつながりが必要だが、

鮮卑拓跋氏の拓跋珪にとって、

劉曜の匈奴とも、石勒の羯にも何の関係もない。

 

むしろ、鮮卑拓跋氏にとっては敵対勢力であった。

 

●実は趙と韓には皇帝の国号としてふさわしくない理由がある。

 

もう一つ趙ではダメな理由がある。

 

秦漢以降、

封地に則って国号を決めているように見えるが、

それは上記のように建国の位置づけによって異なることは説明した。

 

実はさらに、どれでもいいわけではなかった。

 

由来する戦国七雄の中でも、

国号として使える国と使えない国がある。

 

実は韓は使えない。

なぜなら、

韓は歴史上天子ではないからである。

 

五胡十六国時代には、

皇帝以下、天王とか王とか称号があるが、

最も大事なのは、その君主が天子なのかどうかである。

 

古来、天子となっていたのは、

夏・殷・周、である。

それが、戦国時代、周の衰退を見て、

各国が天子となる。

 

天子となるといってもそう簡単なものではない。

儀式が必要で、それを裏付ける思想が必要である。

 

それができたのが、

斉、魏、燕である。

※燕は推定。燕の子之の古例。

 

秦、楚、宋は

そもそも周王朝とは別物の国であり、

これらは独自に天子を名乗れる。

 

この六つの国号だけ、王朝となり得る。

(この辺りの話は、

戦国時代の話になってしまうので、

細かくは言及しない。)

 

ここに趙も代の名前はない。

 

趙も代も

天子にはなり得ないただの中華諸侯の国号であり、

王朝は建てることができない。

 

ということで、

趙も代も、拓跋珪の選択肢からは外れるのである。

≪③へ続く≫