歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

慕容垂亡き後の鮮卑慕容部。後燕滅亡と北燕馮氏。

 

慕容垂死後の後燕、事の顛末。後燕滅亡までの推移と北燕

 

 

 

●この項での登場人物まとめ

非常にややこしいので下記にまとめる。

慕容宝を中心にしての続柄である。

===========

慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。

慕容垂 父

慕容徳 叔父

慕容麟 弟

慕容農 弟

慕容熙 末弟

慕容盛 庶子

慕容会 子

蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅

慕容詳 遠縁の一族

慕容雲(高雲) 養子 高句麗族

============

 

●ザ異民族「慕容垂」

 

何度か書いてきているが、

鮮卑慕容部というのは、

非常に異民族らしい部族である。

 

攻撃的で弱肉強食の実力主義。

高い軍事力を誇り、

一度まとまると戦に滅法強い。

 

祖国を裏切り、

兄の子を皇帝として認めず、

軍事的才能に秀でた慕容垂はまさに、

この鮮卑慕容部の典型的な英傑であった。

 

慕容垂が、

鮮卑慕容部流の生き方を貫いた結果が

後燕の建国であり、慕容垂の死後の鮮卑慕容部の

分裂である。

 

●鮮卑慕容部の絶対王者慕容垂の死

 

395年に息子で皇太子の慕容宝が

北魏と戦い、参合陂で大敗する。(参合陂の戦い)

 

これを受けて、

翌396年に慕容垂が病をおして北魏に対して親征。

 

北魏に勝利するもその陣中で慕容垂は病が悪化。

急ぎ帝都の中山に戻ろうとするも、

途中の上谷にて崩御する。70歳であった。

 

北魏には勝利するも、決定打を与えられず、

北魏は力を温存。慕容垂の死を知り、

拓跋珪は同396年に一気に并州の大半を併合。

一方慕容垂の後継者慕容宝は、

前年の参合陂の戦いで著しく評価を落としていた。

 

鮮卑慕容部は慕容垂が体現したように

実力主義の世界である。

 

ほかの慕容垂の血統、および宗族が

弱者の慕容宝を見て何もしないなどということはありえない。

 

 

 

●典型的異民族鮮卑慕容部の弱肉強食ー肉親相争う。

 

397年3月、慕容宝は薊(今の北京)にて北魏と戦い、大敗。

 

これをきっかけに

内乱が勃発。

 

慕容宝の実子慕容会、

宗族の慕容詳、

弟の慕容麟が反乱を起こす。

 

慕容宝が北魏に負けたことで、

慕容詳が帝都中山で皇帝を僭称。

 

敗退した父慕容宝の救援に

駆けつけた慕容会だったが、

逆に軍隊を父慕容宝に奪われる。

 

慕容会は祖父慕容垂の寵愛を受けていて、

慕容垂は生前に慕容会を後継者にするように

指名していた。

 

慕容垂は子の慕容宝よりも、孫の慕容会に期待しての、

慕容宝への後継者指名であった。

 

このあたりのすれ違いが

父慕容宝と子の慕容会にあった。

 

慕容垂が死んで、慕容宝が後を継ぐと、

慕容垂の慕容会後継指名は反故にして、

末子慕容策を皇太子にしている。

 

この親子の対立は根が深かった。

 

●慕容宝から子の慕容会、慕容麟が分離独立、さらに叔父の慕容徳も。

 

慕容宝救援に来たにも関わらず

軍隊を奪い取られた慕容会はこれで

謀反を決意。

 

慕容会は父慕容宝を追って、

鮮卑慕容部の旧都、龍城まで追い詰めるが、

高句麗人の高雲の前に敗北。

 

慕容会は中山に逃げるも、

ここで慕容詳に殺害される。

 

しかし今度は397年9月に、

慕容詳が慕容麟に殺害される。

慕容麟は慕容宝の弟である。

慕容麟は慕容詳を殺害した後、

慕容詳と同じく皇帝を僭称した。

 

龍城にいる兄慕容宝に対して、

弟慕容麟は中山で皇帝となり、対立したのである。

 

しかし、慕容麟は西から迫る北魏の脅威を

真っ向から受ける。

 

慕容麟一人では北魏に対抗できず、

その姿勢を見た帝都中山の民からの支持を失い、

逃亡。

 

●慕容徳の自立(南燕)

 

慕容麟は、

南の鄴にいた慕容徳のもとに逃げ込む。

慕容徳は慕容垂の弟であり、

後燕における長老、ナンバー2である。

 

後燕、すでに一体化した国家ではなくなっていたが、

北魏に帝都中山を奪われた今、

遼西の龍城と、河北の鄴に勢力圏が別れていた。

 

やはり慕容徳一人では北魏に対抗できない。

さらに鄴は中山と陸続きで、

北魏拓跋珪が軍を差し向けたら

ひとたまりもない。

 

慕容徳は慕容麟からの建言を受け、

鄴を捨てて、南の滑台に移る。

民4万戸を連れての移動であった。

 

ここ滑台で事実上の自立。

翌398年に慕容徳は燕王を称す。

 

慕容宝からの完全自立である。

 

●強者の見栄を張りたい慕容宝、北魏に返り討ちにあう。

 

一方、慕容宝の方は、

こうした慕容徳の動きを全く知らなかった。

 

398年、慕容宝は周囲の諫言を振り切り、

北魏を攻撃するも、途上で軍兵の反乱を招き失敗。

慕容宝は

本拠龍城まで撤退して籠城。

しかし、慕容宝の弟慕容農が反乱軍に投降。

慕容農はかつて父慕容垂が前秦に仕えていた時に、

前燕の復国を度々進言した硬骨漢である。

軍事的才能も高く、慕容垂の子供の中で

頭一つ抜けていた。

この慕容農すら慕容宝を見限るとは、

後燕の混乱の程度が伺える。

 

今度は、

反乱軍の段速骨を蘭汗が攻撃して

滅ぼす。

 

蘭汗は、

慕容垂の庶子で慕容宝の庶兄にあたる、

慕容盛の舅である。

 

蘭汗の姉は、慕容垂の母であり、

慕容垂の母方の叔父にあたる。

なので、蘭汗は匈奴である。

 

蘭汗は慕容宝に戻ってくるよう使者を出すが、

もう腹は決まっていた。 

 

慕容宝の方は、

南の叔父慕容徳のところに逃げ込もうとするも、

ここでようやく慕容徳が南燕として自立したことを知る。

 

●後燕、一旦滅亡。

 

蘭汗の婿で慕容宝の庶兄慕容盛が止めるのも聞かず、

慕容宝は蘭汗のものとなった龍城に戻ろうとする。

 

だが、龍城に向かう途中で、

慕容宝は殺害される。

 

 

蘭汗は昌黎王として自立する。

特に後燕や鮮卑慕容部とは関係がないので。

これを持って後燕は一旦滅亡する。

 

蘭汗の婿慕容盛は龍城に戻る。

蘭汗は慕容盛の処遇を悩むも、

妻や慕容盛に嫁いだ娘の反対に押され、臣下として迎え入れる。

 

しかし、

これが仇となり、蘭汗は慕容盛に酒宴を狙われて殺害される。

 

●後燕の復国と南燕慕容徳の皇帝僭称。

 

 

慕容盛は皇帝となるも、

これまでの経緯もあって、猜疑心の強い治世となった。

またすでに遼東・遼西のみしか領地を持っておらず、

既に皇帝と名乗るには実態を伴わなかった。

400年1月には皇帝から、庶民天王と自ら格を下げる。

後燕ではあるものの、地方政権へと衰退した。

 

一方で、

これを見た山東省・南燕の慕容徳は

皇帝を称する。

 

=========

慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。

慕容垂 父

慕容徳 叔父

慕容麟 弟

慕容農 弟

慕容熙 末弟

慕容盛 庶子

慕容会 子

蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅

慕容詳 遠縁の一族

==========

 

●他者を信じられない慕容盛は弾圧するも殺される。

 

慕容盛は法に厳格で、猜疑心が強く、

粛清を多々行った。

本当の強者ではない証拠である。

 

このため、反乱を招き、

慕容盛は殺される。29歳であった。

 

後継者に年長者を、という声を、

慕容盛の母、丁太后は受け入れ、

慕容盛の子、慕容定ではなく、

慕容盛の叔父、慕容熙を後継者とする。

 

慕容熙は慕容垂の末子、慕容宝の末弟である。

 

●慕容熙

 

慕容熙は慕容熙で今度は

また異なった物語がある。

 

慕容熙は前秦苻堅の一族の姉妹を

寵愛。溺愛した。

自分たちが事実上滅ぼした国の君主の

娘を愛する。異民族文化である。

 

特に妹の苻訓英の方を溺愛するのだが、

この妹の方が早死にすると、

間も無く後を追うという状態であった。

 

その一方で、

臣下には冷淡で、

苛酷な政治を行った。

 

この時、

後燕からみて、北に契丹(きったん)、

東に高句麗が勢力を伸ばしてきた。

 

これに対して、

苻訓英が政治に容喙(口を出すという意味)。

406年、

契丹遠征を主張し、兵を出すも、契丹は強勢のため、

撤退しようとするも、苻訓英は認めず、

今度は高句麗を攻める。

 

戦いにならず、高句麗に敗退。

これを見て、慕容宝の養子で、慕容雲は出奔。

 

●407年、馮跋により後燕はついに滅亡。北燕の成立。

 

407年馮跋は一族の罪のために、処罰される前に下野。

馮跋は漢人で、後燕の宿敵西燕に仕えていたが、

その能力を買われて

後燕に仕えていた。

 

後に、

苻訓英が早死にし、

その葬儀のために

慕容熙が龍城から出城する。

 

これを好機と見た

馮跋は、反乱を起こし、慕容雲を天王として擁立する。

 

後に慕容熙は捕らえられ処刑される。

 

この時に、

慕容雲は、元の、高雲に名前を戻す。

 

この時が事実上の後燕の滅亡である。

407年である。

 

慕容雲は鮮卑慕容氏の血族ではなく、

さらにその慕容雲さえも馮跋に実権を握られていたので、

後燕としての実態は既になかった。

 

歴史上の分類では

この407年からを北燕と呼ぶ。

 

 

後に高雲も近衛軍から裏切られ、

409年に殺される。

 

●馮跋の天王即位。その死後、弟馮弘のときに北魏により滅亡。

 

これを受け、

馮跋が天王に即位。

409年のことである。

 

馮跋の治世は、とてもうまくいき、

遼東は安定した。

 

北魏からの圧迫もあったが、

東晋、柔然という北魏の敵対国との外交を強化。

さらに北隣の契丹とも友好関係を維持。

 

北魏に対しては、馮跋の方も、

強硬姿勢で、北魏明元帝のときに二度使者を拘束している。

 

430年に馮跋が死ぬまで勢力を維持する。

 

430年以降は馮跋の弟馮弘が後を継ぐ。

 

しかしながら、

北魏が425年にオルドスの夏を滅ぼすと、

本格的に遼東方面に手を出してきたので、

情勢が厳しくなる。

 

最後は436年に北魏に攻撃され、

滅亡。馮弘は高句麗に亡命するも

438年に馮弘は高句麗により殺害され、北燕は完全滅亡する。

 

●馮弘の孫・馮太后が北魏文成帝の皇后。

 

馮太后は、

北魏の文成帝の皇后で、

後に孝文帝の漢化政策に多大な影響を与えた。

北魏の登場人物の中でも最重要人物の一人である。

 

この馮太后だが、

上記の馮弘の孫である。

 

馮弘の次男、馮朗の子である。

 

馮弘は天王に即位すると、

后慕容氏との子を太子とした。

 

 このため、

馮弘の子の馮朗は兄の馮崇を説得して、

北魏に亡命。

 

北魏としては、

北燕の宗族(本来の正統な後継者といっていい)を

手に入れたことで、大義名分を得たことになる。

 

ここで北魏において442年に生まれたのが、

馮太后である。

 

後に馮朗は罪により処刑されたので

恵まれた環境ではなかったと思われるが、

こうした経緯で馮太后は

北魏で生まれた。

 

 

馮太后も、

敵国北魏に滅ぼされた亡国の姫君である。

これを娶ることこそが異民族の文化である。