慕容垂死後の後燕、事の顛末。後燕滅亡までの推移と北燕
- ●この項での登場人物まとめ
- ●ザ異民族「慕容垂」
- ●鮮卑慕容部の絶対王者慕容垂の死
- ●典型的異民族鮮卑慕容部の弱肉強食ー肉親相争う。
- ●慕容宝から子の慕容会、慕容麟が分離独立、さらに叔父の慕容徳も。
- ●慕容徳の自立(南燕)
- ●強者の見栄を張りたい慕容宝、北魏に返り討ちにあう。
- ●後燕、一旦滅亡。
- ●後燕の復国と南燕慕容徳の皇帝僭称。
- ●他者を信じられない慕容盛は弾圧するも殺される。
- ●慕容熙
- ●407年、馮跋により後燕はついに滅亡。北燕の成立。
- ●馮跋の天王即位。その死後、弟馮弘のときに北魏により滅亡。
- ●馮弘の孫・馮太后が北魏文成帝の皇后。
●この項での登場人物まとめ
非常にややこしいので下記にまとめる。
慕容宝を中心にしての続柄である。
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慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。
慕容垂 父
慕容徳 叔父
慕容麟 弟
慕容農 弟
慕容熙 末弟
慕容盛 庶子
慕容会 子
蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅
慕容詳 遠縁の一族
慕容雲(高雲) 養子 高句麗族
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●ザ異民族「慕容垂」
何度か書いてきているが、
鮮卑慕容部というのは、
非常に異民族らしい部族である。
攻撃的で弱肉強食の実力主義。
高い軍事力を誇り、
一度まとまると戦に滅法強い。
祖国を裏切り、
兄の子を皇帝として認めず、
軍事的才能に秀でた慕容垂はまさに、
この鮮卑慕容部の典型的な英傑であった。
慕容垂が、
鮮卑慕容部流の生き方を貫いた結果が
後燕の建国であり、慕容垂の死後の鮮卑慕容部の
分裂である。
●鮮卑慕容部の絶対王者慕容垂の死
395年に息子で皇太子の慕容宝が
北魏と戦い、参合陂で大敗する。(参合陂の戦い)
これを受けて、
翌396年に慕容垂が病をおして北魏に対して親征。
北魏に勝利するもその陣中で慕容垂は病が悪化。
急ぎ帝都の中山に戻ろうとするも、
途中の上谷にて崩御する。70歳であった。
北魏には勝利するも、決定打を与えられず、
北魏は力を温存。慕容垂の死を知り、
拓跋珪は同396年に一気に并州の大半を併合。
一方慕容垂の後継者慕容宝は、
前年の参合陂の戦いで著しく評価を落としていた。
鮮卑慕容部は慕容垂が体現したように
実力主義の世界である。
ほかの慕容垂の血統、および宗族が
弱者の慕容宝を見て何もしないなどということはありえない。
●典型的異民族鮮卑慕容部の弱肉強食ー肉親相争う。
397年3月、慕容宝は薊(今の北京)にて北魏と戦い、大敗。
これをきっかけに
内乱が勃発。
慕容宝の実子慕容会、
宗族の慕容詳、
弟の慕容麟が反乱を起こす。
慕容宝が北魏に負けたことで、
慕容詳が帝都中山で皇帝を僭称。
敗退した父慕容宝の救援に
駆けつけた慕容会だったが、
逆に軍隊を父慕容宝に奪われる。
慕容会は祖父慕容垂の寵愛を受けていて、
慕容垂は生前に慕容会を後継者にするように
指名していた。
慕容垂は子の慕容宝よりも、孫の慕容会に期待しての、
慕容宝への後継者指名であった。
このあたりのすれ違いが
父慕容宝と子の慕容会にあった。
慕容垂が死んで、慕容宝が後を継ぐと、
慕容垂の慕容会後継指名は反故にして、
末子慕容策を皇太子にしている。
この親子の対立は根が深かった。
●慕容宝から子の慕容会、慕容麟が分離独立、さらに叔父の慕容徳も。
慕容宝救援に来たにも関わらず
軍隊を奪い取られた慕容会はこれで
謀反を決意。
慕容会は父慕容宝を追って、
鮮卑慕容部の旧都、龍城まで追い詰めるが、
高句麗人の高雲の前に敗北。
慕容会は中山に逃げるも、
ここで慕容詳に殺害される。
しかし今度は397年9月に、
慕容詳が慕容麟に殺害される。
慕容麟は慕容宝の弟である。
慕容麟は慕容詳を殺害した後、
慕容詳と同じく皇帝を僭称した。
龍城にいる兄慕容宝に対して、
弟慕容麟は中山で皇帝となり、対立したのである。
しかし、慕容麟は西から迫る北魏の脅威を
真っ向から受ける。
慕容麟一人では北魏に対抗できず、
その姿勢を見た帝都中山の民からの支持を失い、
逃亡。
●慕容徳の自立(南燕)
慕容麟は、
南の鄴にいた慕容徳のもとに逃げ込む。
慕容徳は慕容垂の弟であり、
後燕における長老、ナンバー2である。
後燕、すでに一体化した国家ではなくなっていたが、
北魏に帝都中山を奪われた今、
遼西の龍城と、河北の鄴に勢力圏が別れていた。
やはり慕容徳一人では北魏に対抗できない。
さらに鄴は中山と陸続きで、
北魏拓跋珪が軍を差し向けたら
ひとたまりもない。
慕容徳は慕容麟からの建言を受け、
鄴を捨てて、南の滑台に移る。
民4万戸を連れての移動であった。
ここ滑台で事実上の自立。
翌398年に慕容徳は燕王を称す。
慕容宝からの完全自立である。
●強者の見栄を張りたい慕容宝、北魏に返り討ちにあう。
一方、慕容宝の方は、
こうした慕容徳の動きを全く知らなかった。
398年、慕容宝は周囲の諫言を振り切り、
北魏を攻撃するも、途上で軍兵の反乱を招き失敗。
慕容宝は
本拠龍城まで撤退して籠城。
しかし、慕容宝の弟慕容農が反乱軍に投降。
慕容農はかつて父慕容垂が前秦に仕えていた時に、
前燕の復国を度々進言した硬骨漢である。
軍事的才能も高く、慕容垂の子供の中で
頭一つ抜けていた。
この慕容農すら慕容宝を見限るとは、
後燕の混乱の程度が伺える。
今度は、
反乱軍の段速骨を蘭汗が攻撃して
滅ぼす。
蘭汗は、
慕容垂の庶子で慕容宝の庶兄にあたる、
慕容盛の舅である。
蘭汗の姉は、慕容垂の母であり、
慕容垂の母方の叔父にあたる。
なので、蘭汗は匈奴である。
蘭汗は慕容宝に戻ってくるよう使者を出すが、
もう腹は決まっていた。
慕容宝の方は、
南の叔父慕容徳のところに逃げ込もうとするも、
ここでようやく慕容徳が南燕として自立したことを知る。
●後燕、一旦滅亡。
蘭汗の婿で慕容宝の庶兄慕容盛が止めるのも聞かず、
慕容宝は蘭汗のものとなった龍城に戻ろうとする。
だが、龍城に向かう途中で、
慕容宝は殺害される。
蘭汗は昌黎王として自立する。
特に後燕や鮮卑慕容部とは関係がないので。
これを持って後燕は一旦滅亡する。
蘭汗の婿慕容盛は龍城に戻る。
蘭汗は慕容盛の処遇を悩むも、
妻や慕容盛に嫁いだ娘の反対に押され、臣下として迎え入れる。
しかし、
これが仇となり、蘭汗は慕容盛に酒宴を狙われて殺害される。
●後燕の復国と南燕慕容徳の皇帝僭称。
慕容盛は皇帝となるも、
これまでの経緯もあって、猜疑心の強い治世となった。
またすでに遼東・遼西のみしか領地を持っておらず、
既に皇帝と名乗るには実態を伴わなかった。
400年1月には皇帝から、庶民天王と自ら格を下げる。
後燕ではあるものの、地方政権へと衰退した。
一方で、
これを見た山東省・南燕の慕容徳は
皇帝を称する。
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慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。
慕容垂 父
慕容徳 叔父
慕容麟 弟
慕容農 弟
慕容熙 末弟
慕容盛 庶子
慕容会 子
蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅
慕容詳 遠縁の一族
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●他者を信じられない慕容盛は弾圧するも殺される。
慕容盛は法に厳格で、猜疑心が強く、
粛清を多々行った。
本当の強者ではない証拠である。
このため、反乱を招き、
慕容盛は殺される。29歳であった。
後継者に年長者を、という声を、
慕容盛の母、丁太后は受け入れ、
慕容盛の子、慕容定ではなく、
慕容盛の叔父、慕容熙を後継者とする。
慕容熙は慕容垂の末子、慕容宝の末弟である。
●慕容熙
慕容熙は慕容熙で今度は
また異なった物語がある。
慕容熙は前秦苻堅の一族の姉妹を
寵愛。溺愛した。
自分たちが事実上滅ぼした国の君主の
娘を愛する。異民族文化である。
特に妹の苻訓英の方を溺愛するのだが、
この妹の方が早死にすると、
間も無く後を追うという状態であった。
その一方で、
臣下には冷淡で、
苛酷な政治を行った。
この時、
後燕からみて、北に契丹(きったん)、
東に高句麗が勢力を伸ばしてきた。
これに対して、
苻訓英が政治に容喙(口を出すという意味)。
406年、
契丹遠征を主張し、兵を出すも、契丹は強勢のため、
撤退しようとするも、苻訓英は認めず、
今度は高句麗を攻める。
戦いにならず、高句麗に敗退。
これを見て、慕容宝の養子で、慕容雲は出奔。
●407年、馮跋により後燕はついに滅亡。北燕の成立。
407年馮跋は一族の罪のために、処罰される前に下野。
馮跋は漢人で、後燕の宿敵西燕に仕えていたが、
その能力を買われて
後燕に仕えていた。
後に、
苻訓英が早死にし、
その葬儀のために
慕容熙が龍城から出城する。
これを好機と見た
馮跋は、反乱を起こし、慕容雲を天王として擁立する。
後に慕容熙は捕らえられ処刑される。
この時に、
慕容雲は、元の、高雲に名前を戻す。
この時が事実上の後燕の滅亡である。
407年である。
慕容雲は鮮卑慕容氏の血族ではなく、
さらにその慕容雲さえも馮跋に実権を握られていたので、
後燕としての実態は既になかった。
歴史上の分類では
この407年からを北燕と呼ぶ。
後に高雲も近衛軍から裏切られ、
409年に殺される。
●馮跋の天王即位。その死後、弟馮弘のときに北魏により滅亡。
これを受け、
馮跋が天王に即位。
409年のことである。
馮跋の治世は、とてもうまくいき、
遼東は安定した。
北魏からの圧迫もあったが、
東晋、柔然という北魏の敵対国との外交を強化。
さらに北隣の契丹とも友好関係を維持。
北魏に対しては、馮跋の方も、
強硬姿勢で、北魏明元帝のときに二度使者を拘束している。
430年に馮跋が死ぬまで勢力を維持する。
430年以降は馮跋の弟馮弘が後を継ぐ。
しかしながら、
北魏が425年にオルドスの夏を滅ぼすと、
本格的に遼東方面に手を出してきたので、
情勢が厳しくなる。
最後は436年に北魏に攻撃され、
滅亡。馮弘は高句麗に亡命するも
438年に馮弘は高句麗により殺害され、北燕は完全滅亡する。
●馮弘の孫・馮太后が北魏文成帝の皇后。
馮太后は、
北魏の文成帝の皇后で、
後に孝文帝の漢化政策に多大な影響を与えた。
北魏の登場人物の中でも最重要人物の一人である。
この馮太后だが、
上記の馮弘の孫である。
馮弘の次男、馮朗の子である。
馮弘は天王に即位すると、
后慕容氏との子を太子とした。
このため、
馮弘の子の馮朗は兄の馮崇を説得して、
北魏に亡命。
北魏としては、
北燕の宗族(本来の正統な後継者といっていい)を
手に入れたことで、大義名分を得たことになる。
ここで北魏において442年に生まれたのが、
馮太后である。
後に馮朗は罪により処刑されたので
恵まれた環境ではなかったと思われるが、
こうした経緯で馮太后は
北魏で生まれた。
馮太后も、
敵国北魏に滅ぼされた亡国の姫君である。
これを娶ることこそが異民族の文化である。