歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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春秋五覇 覇権争い概説

 

 

 

●覇者とは中原の交易を牛耳る者

 


当時の中国大陸において、

東西南北の文物が行き交う唯一の地点が、

三国志では白馬(白馬津)と呼ばれたあたりの

エリアだ。

ここは、黄河が浅く、流れも穏やかで渡河しやすい。

 

この場所を、

はじめは、

西周(西戎)、

次は斉(東夷)、

次に楚(南蛮)、

その後は、晋(北狄)と

争い、

最後は各国それぞれが経済力を得たので、

それぞれの勢力争いとなる。

 

これが春秋時代である。

 

呉越が春秋五覇に加わったのは、

東晋の政治的プロパガンダ。

江南は古から中原諸国だったという

由来が欲しかった。

(呉は西周文王の叔父が祖ということになっている。)

 

城壁で囲まれた都市(これを国と呼ぶ)は、

交易所。これは黄河渡河点=中原を中心に、

数多く存在する。

ここに物資は保管される。

 

黄河の渡河地点とその周辺の都市、

すなわち中原を押さえた者が覇者となる。

支配の権威は周王の権威を借りる。

 

これが春秋五覇の実態である。

 

 

●王者としての西周滅亡。覇者の時代へ。

 

前771年

西周幽王、殺害される。

洛邑にて平王立ち、東周時代へと入る。

関中は携王が立つ。

 

●東周は当時の軍事大国斉を利用して秩序を回復。

 

前651年 斉の桓公(在位前685年ー前643年)、覇者となる。

北狄の討伐、

衛の内紛の差配、

各諸侯の再統合を図る。

なお、このときにのちの覇権国晋の姿はなかった。

 

●南蛮・楚という異国が中原の覇権を取る。

 

楚は王号を名乗ることからわかるように、

周などの中原国とは異文化の楚。

 

前638年

泓の戦い(おうのたたかい)

宋の襄公 対 楚の成王

覇者を目指した宋の襄公(在位 前650年ー637年)

が楚の成王(在位 前671年ー626年。楚で初めて王を称した)に敗れる。

  

●晋の重耳が帰国して覇権国へ。

 

前636年

晋の重耳が晋に帰国。晋侯となる。

いわゆる晋の文公(在位 前636年ー628年)。

 

前632年

城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)

場所は現山東省の鄄城県。

晋の文公 対 楚の成王

晋の文公が勝利。

 

中原諸侯を席巻していた楚を中原から排除。

 

前627年 

殽の戦い(こうのたたかい)

晋の襄公 対 秦の穆公

晋の襄公が勝利。

 

晋の文公が死去したのに乗じて、秦の穆公が

晋を攻撃するも、晋の襄公は返り討ちにする。

晋の襄公が従来の白い喪服を黒くして戦った。

黒は戦いの服(戎服)。

 

●楚の逆襲。

 

前597年

邲の戦い(ひつのたたかい)。

場所は洛邑の北東、黄河北岸エリア。

 


晋 対 楚

晋は、総大将荀林父。

楚は、楚の荘王(在位 前613年ー前591年)の親征である。

これにより楚の荘王が覇権を握る。

 

●晋国内紛が落ち着き、楚の再排除。

 

覇権の奪回と言いたいが、

本来は、

 

前575年

鄢陵の戦い(えんりょうのたたかい)。

場所は新鄭の南東。

晋の厲公 対 楚の共王

晋の中軍の将(正卿)は欒書(らんしょ)。

晋の勝利。覇権を取り返す。

 

 

前525年

鄭子産、初めての成文法。

法を鼎に鋳る。

 

●南蛮国・楚の凋落と呉越戦争。

 

楚の一強だった南蛮圏が乱れる。

 

前506年

呉王闔閭(在位 前514年ー前496年)が

伍子胥のサポートを受けて、

楚を侵略。楚の王都郢を一時的に占領する。

 

前496年

欈李の戦い(すいりのたたかい)

場所は現代の浙江省嘉興市。

呉の王都姑蘇の南で、

越の王都会稽の北。

 

呉王闔閭は流れ矢を受け、

その後死亡。

 

闔閭を継いだ夫差は、

のちに越王勾践に復讐。

 

前473年

姑蘇の戦い。

今度は、越王勾践が呉王夫差に復讐。

呉は滅亡する。

 

●晋の事実上の消滅。

 

前453年

晋陽の戦い。

晋国内最大勢力の智氏が

趙氏を攻める。

しかしながら、

魏氏・韓氏が趙氏の調略により、

智氏は返り討ちに遭い、滅亡。

 

前403年に韓魏趙は晋から独立し、

晋は事実上滅亡。