歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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晋の歴史が春秋戦国時代そのもの。

戦国時代にを語るにあたり、

春秋時代の晋という国の存在が重要である。 

 

戦国時代の後半は秦の快進撃が話の中心となるが、

その対立軸は、韓魏趙という春秋時代の晋を分けて、

自立した国との争いになるからである。

 

(韓魏趙はそうした由来から、総称して三晋と呼ばれる。)

 

晋を覇者にしたのは、

晋の文公であるが、

晋の勃興は祖父武公、父献公である。

 

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元々晋は後進国であった。

 

いわゆる中原というのは、

中華における交易の中心地のことである。

 

それは黄河を南北に渡河できる地点のことを指す。

 

南北、および東西の物資が、

黄河を渡河することで交易ができる。

 

具体的な場所は、

現在の洛陽から開封までのことを指す。

 

このあたりを春秋時代に押さえていたのは、

東周、鄭、衛である。

 

しかしながら、

これらは基本的に交易都市、文化都市を持つのみで、

軍馬や武器の生産という意味で、

弱みを持つ。

 

そこで、

これらの国の東にある

魯や宋という国の影響を持つ。

 

元々、周という国は関中平野において、

軍馬の調達や武器の生産を行って軍事力を確保し、

洛陽で交易という経済活動を行う、

という構造を持っていた。

 

しかし、春秋時代の周は関中平野を失ったので、

軍事力のある国の後ろ盾が必要になった。

 

周辺諸国の連合で当初は

凌いでいたが、

そのうち北から北狄、

南から楚が勢力を伸ばし、

それだけでは対処しきれなくなってしまった。

 

そこで出てきたのが斉の桓公である。

 

 

周王朝の諸侯の中では

外縁部に位置する斉。

 

馬の産地にも近く、

近いということは馬を安く調達できる。

 

山もあるので鉱物も取れるので、

武器の生産も可能である。

 

東に東夷という夷狄がいるので、

国民は戦いに慣れている。

中原諸国よりは勇敢な民が多い。

 

そこに、

斉の桓公と管仲という

セットが生まれ、

周王朝、中原諸国の守護者となる。

中原諸国の守護者=覇者と呼ぶ。

 

しかし、これは斉の桓公の一代のみであった。

 

 

春秋五覇というが、これは戦国時代にできた概念で、

当然斉の桓公の時にはこういう概念はない。

 

周王朝の守護者は斉の桓公で

終わる話であった。

 

斉の桓公は

後継者選びで失敗し、

斉は混乱する。

 

斉は守護者の地位を世襲できなかった。

 

一方、

このころ勃興していたのが

晋である。

 

 

晋は現在の山西省を地盤とする。

中原からは、

山と河を隔てた僻地である。

 

晋のエリアには

軍馬の産地があり、高い軍事力を擁する。

合わせて、

周王朝の、

若干の都市文明の進出もあり、

中華文明への馴染み度合いもそこそこ。

 

斉の桓公の死後、

南方の楚の脅威が増していた周は、

この晋に助けを求めた。

 

これに見事に応えたのが、

晋の文公である。

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晋の文公の母は夷狄の出身(白狄)

 

狐偃、趙衰は狄の出身。

 

◆狐偃の墓、現状の写真(狐偃墓 百度百科から引用。)

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趙衰とは、

狄の姉妹をそれぞれ娶る。

さらに、晋の文公の娘を趙衰は娶り、

二重の姻戚関係でもある。

中華の概念からすれば、

非常に珍しい関係である。

 

狐偃と趙衰の死後、

それぞれの子供が相争い、

趙衰の子孫が勝利する。

 

 

この趙衰の子孫が、

のちの戦国時代の趙を作る。

 

●晋陽系と邯鄲系

 

趙衰の子孫は、

実は二つの系統がある。

 

のちに趙という国を建てるのは、

これは晋陽系の趙衰の子孫であった。

 

晋陽系の趙衰の子孫は、

上記でいう狄の女の子孫である。

一方、

邯鄲系の趙衰の子孫は

晋の文公の娘の子孫である。

 

当然、どちらが血統として格が上かは、

一目瞭然である。

邯鄲系は晋の文公の血筋であるのだから、

趙衰の系統としての嫡出はこちらと見て、

本来は問題がない。

 

しかし、

この晋の文公の娘は謙譲した。

 

理由はわからない。

 

趙衰の子で、

のちに晋の正卿として辣腕を振るった趙盾は

晋陽の系統である。

 

晋文公の娘は、

趙盾の才能を尊重したか。

それとも、晋陽系の趙盾一族と

対立することを避けたかったか。

 

趙盾を立てて、自らは晋のために

一歩引いた、という綺麗な話になりがちであるが、

多分に、将来を見越して争いたくなかったからではないかと

私は思う。

 

晋の文公の娘の系統、邯鄲系は、

太行山脈の東麓で黄河渡河地点に近い

邯鄲を領有して栄華を誇る。

ここはもちろん中原の一角であり、

文明度の高いいわゆる都会であった。

 

田舎の晋陽とは違う。

 

 

趙盾は当然、自らが趙衰の後を継げたことに

恩義を感じた。

晋文公の娘の系統で、

趙盾にとっては異母弟の系統を大切に扱った。

 

正卿としての趙盾は、

事実上の最高権力者として、

厳しい措置も辞さない政治を行うも、

晋の国威は趙盾の時代に大きく伸張。

(孤氏は滅ぼし、士会は秦に亡命するようにしてしまうなど、

冷徹な判断で損切りをするのが趙盾である。)

 

こののち晋の栄華が100年続くのはこの趙盾の

おかげといってもいい。

 

しかしこのような、

血も涙もない趙盾が晩年、一つの決断をする。

 

 

趙盾は、

趙氏の家督を、

趙盾自身の晋陽系ではなく、

晋文公の娘、趙盾から見れば義理の母の

系統である邯鄲系に戻すと

決断する。

 

(なお、似たようなことを

戦国時代の趙の直接の建国者、趙無恤もしている。

自身は狄の娘子で非嫡出子であった。

趙無恤には子がなかったこともあり嫡出の兄の系統に

家督を戻すものちに内乱となる。)

 

これは、

趙盾が義理の母に恩義を感じていたからであろうか。

それとも、

晋の君主を事実上形骸化させてしまったことに

対する罪滅ぼしか。

それとも晋文公に対する敬愛の念からか。

 

いずれにせよ、

私は、この趙盾の本意は、

趙盾の義理の母で晋文公の娘と同じだと思う。

 

自らの身を、子孫を守るために、

家督を邯鄲系に戻す。

これだと私は考えている。

 

そのぐらい趙盾は専権を振るっていた。

 

 

しかし、趙盾自身の後継者、

すなわち晋陽系の後継者の

趙朔は、父趙盾のような冷徹な政治家ではなかったものの、

その温和な人柄から

人望を集めていた。

 

父趙盾が冷徹であるからこそ、

力を強め、

それを継いだのが温和な趙朔なのだから、

周囲は心底安心した。

 

であれば、趙朔が力を持って、

自分たちを守ってもらったほうがいい。

 

趙家の家督は邯鄲系に移ったとはいえ、

趙盾の息子で晋陽系の趙朔の力は揺るがなかった。

 

趙朔は結局、卿の地位を継ぐことになる。

晋の法律では、一つの族からは、

ひとりの卿しか出せないことになっている。

のちにこれは形骸化するも、この当時は厳格であった。

 

このことで、

なんとか、晋文公の娘と趙盾が

抑え込んできた、

晋陽系と邯鄲系の対立が明確化するのである。

 

 

邲の戦い。

叔父で

邯鄲系の趙括は交戦を主張。

 

晋陽系の趙朔は士会とともに交戦に反対するも、

楚との戦いへ。

趙朔率いる下軍は全滅する。

 

 

 

趙朔に亡命を進める韓厥。

 

しかし趙朔は応じず、

晋の霊公の命を受けた屠岸賈によって殺される。

 

ちなみにこの屠岸賈は賈氏とされる。

賈氏の祖は、趙盾が滅ぼした狐偃の子、狐射姑。

 

趙括およびその兄の趙同は、

趙の中枢へ。

 

韓厥は趙朔の子、趙武を匿う。

韓厥は趙盾が登用した人物でもあり、

ここで趙と韓の深い関係が出来上がる。

 

 このように、

趙氏の内紛から晋国の有力大夫の内紛へ

広がる。

 

 最終的には、

この邯鄲系の趙氏は、内紛で滅亡(前583年)し、

韓厥により匿われていた趙武が登場。

 

これにより、晋の内紛は一旦収まる。

 

前575年の 焉陵の戦いで、

楚に勝ち、晋は再び覇権国へ。

 

 ●

 

前497年から

再度趙氏の内紛が起こる。

 

上記の邯鄲系の領地を継いだ

趙盾の従兄弟である趙穿系

との対立である。

 

趙穿は、

趙盾が追放されたことに憤慨し、

晋の霊公を殺した人物である。

 

父趙武の跡を受けて、

趙鞅は、衛への進出で勢力をさらに増す。

 

しかし、この邯鄲系との対立で、

趙氏は有力諸侯の中で著しく

力を落とした。

 

そこを、

中行氏(荀氏の直系。荀林父系)、范氏(士会の系統)を

滅ぼした智氏(荀氏の傍系。荀林父の弟荀首の子、荀罃の系統)

が勢力を増し、

趙氏の殲滅にかかる。

 

韓氏、魏氏は智氏に追随。

 

しかし、趙氏はこれを、

前453年に晋陽の戦いにおいて打ち破る。

 

韓魏趙は、

これを機に分離独立、

晋の実態よりも自己勢力を優先。

 

戦国時代にこれで入る。

こののちの歴史は知っての通りの

戦国時代である。