歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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北魏華北統一の成功要因は道武帝の軍事集権化と後燕の官僚組織の奪取

 

北魏華北統一の成功要因は

道武帝の軍事集権化と後燕の官僚組織の奪取

である。

 

●北魏道武帝の軍事集権化

 

道武帝は、

鮮卑拓跋氏を復興させ、北魏を建国。

若くして、華北に覇をとなえたが、

錬丹術(硫化水銀を飲むこと)で初めて死んだ皇帝である。

 

この道武帝が、

異民族ならではの

各部族ごとの軍事組織を、

皇帝直轄にした。

 

皇帝が軍を徴収し、

最高司令官として遠征する。

だから、

軍事行動のスピードが速い。

 

部族への配慮がいらないから、

意思決定も素早くできる。

 

 

●後燕の漢人官僚組織の奪取。

 

北魏道武帝は、

事実上後燕を滅ぼした。

壊滅状態まで持っていった時に、

手に入れたのが、

後燕の優秀な漢人官僚組織である。

 

異民族が華北を支配する時に

困るのは、

華北の農耕社会をどう支配するかだ。

 

現代日本に生きるわれわれには認識しにくいのだが、

例えば、

匈奴は漢に攻め入って、

漢人をさらってくる。

 

そうして何をさせるのか。

家や宮殿を建てたり、

農耕をさせるのだ。

 

彼ら、匈奴などの異民族は、

建物を建てたり、

農耕をすることは事実上できないのである。

 

後世、

モンゴルにおいては、

移動式住居である、

ゲル(パオ)に住んでいた。

これが異民族の住む北方では、

ふさわしい生活スタイルであり、

建築物を建てるという文化は育たなかった。

 

また、農耕も、

寒く、凍土になる土は耕せない。

寒冷で湿気も少ない場所では、

育つ作物が限られる。

以前は日本の東北以北では米が育たなかったことからも、

想像がつくのではないか。

 

だから、

建築も農耕も、

異民族には伝承される技術はなかった。

 

だから、

漢人をさらってきて、

北方で、

建築や農耕をさせる。

 

そういうものである。

 

北魏には、

だから、漢人の土地である、

華北を支配する能力はないのである。

 

しかし、それを持っていた後燕の漢人官僚組織を

早々に手に入れたことは大きい。

 

この官僚組織は

石勒、慕容恪、慕容垂により

連綿として、

異民族の下で華北漢人農耕エリアの

支配を行ってきた。

 

異民族慣れしているとも言える。

 

●北魏道武帝の遺産を孫の太武帝がただ継承。

 

道武帝は硫化水銀で若くてして30代で死去。

それを継ぐ、明元帝は、

江南の劉宋を、

南方に押し込むことに成功して、

これもやはり死去。

(多分やはり硫化水銀の飲み過ぎで死去)

 

祖父、父の遺産を継承した太武帝が、

華北異民族を攻撃。

 

ほかの異民族は、

異民族そのままの収奪文化しか

知らないので、

国力が増えることはない。

 

ただ、漢人を収奪の対象としてしか見ておらず、

少し物資を貯め込めば奪い、

必要に応じて奴隷として売る。

ただそれだけである。

しかし、北魏は高い軍事力を維持しながら、

漢人農耕エリアの適切な支配から、

物質、文化が向上する。

 

つまり、

食べ物はあるし、武器は強くなるし、

知識が増えるので統治手法も向上する。

 

それで北魏は、

他国を圧倒し、

439年に太武帝は、

盤石に華北を統一する。

 

●北魏の成功要因を知らなかった太武帝と孝文帝

 

しかし、

太武帝とのちに漢化政策を実行する

孝文帝の両帝は、

自分たちの成功要因を知らなかった。

 

まず、太武帝は、

祖父、父の遺産を継承しただけである。

統治者としては

それを活かしただけであった。

 

華北を統一したのち、

太武帝は、

鮮卑拓跋氏の歴史を崔浩に編纂を命じる。

 

こんなことしなければいいのに、

ある程度太武帝は

中華にかぶれ始めたのだろう。

 

異民族に歴史などない。

ただ、強者があるのみなのに、

漢文化の歴史を異民族に混ぜようとする。

 

しかし崔浩は、

漢人のなかでも紛れもない名族、清河崔氏の

一員であり、

中華思想の体現者だ。

崔浩の属する清河崔氏の祖先のひとりに、

曹操に殺された崔琰がいることから、

その硬骨漢ぶりは想像がつくだろう。

 

ここで

胡漢が衝突する。

 

崔浩は、

中華から見た歴史しか書けないので、

堂々と、

卑しい異民族としての姿を、

鮮卑拓跋氏に向けて言い放つ。

 

大体において、

漢字で書けば、

鮮卑という文字に、卑しいという文字がある時点で、

彼らは卑しいのだ。

 

ただ、それが

軍事力、武力でのし上がっただけなのだ。

儒教からすれば、

武すらもこの時代ではすでに卑しい。

 

それを知らなかった太武帝は、

怒る。

崔浩は誅殺する。

しかし、崔浩に代表される

漢人社会によって、

北魏は運営されていて、

その力で華北を制覇できたのにその認識がなかった。

 

さらにそれを促進するのが

北魏孝文帝だ。

 

孝文帝は、鮮卑拓跋氏を漢化させる。

名字すら変える。元氏にする。

 

異民族のトップクラスの8部族と、

漢人名家の4族を同格とする。

 

制服民のエリート部族が

被征服民のエリート名族が同格など、

聞いたことがない。

 

そうしてまで、

孝文帝は漢化したかった。

 

結局、中華に染まり、

自分たちは卑しいと認めたことになる

 

そうして、

かつての崔浩と同様に、

北方を嫌い、武を蔑んだ。

 

その結果

北魏の根本的な力の源泉である、

武力を放棄した。

 

漢化政策で冷遇された

北方辺境の六鎮で

反乱が起きるのは当然と言える。

 

彼らは、

本来は北魏鮮卑拓跋氏が

中華の覇者になった源泉なのだから、

漢化した北魏拓跋氏を凌駕できる。

 

早々に北魏を

破壊した、高歓と宇文泰が戦上手なのは

当然である。

 

高歓はしかしながら、漢人の強い山東が支配地域だったので

孝文帝寄りの体制を取ることになる。

漢人を優遇する。

自身も、本当は異民族なのに、

漢人の名族、渤海高氏ということになる。

 

一方、

宇文泰は、

軍事国家を維持するために、

北魏道武帝寄りの政策にする。

名字を異民族流に戻し、

軍人統治にする。(これが府兵制)

 

八柱国十六将軍という体制は、

皇帝に直属する。

さらに宇文泰の子孫の北周の君主は、

天王号を称し、

中華と距離を置く。

 

高歓の北斉に対して

圧倒的に国力の弱かった北周は、

異民族国家に戻して、

軍事国家を成立させ、

対抗していく。