歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

③匈奴漢の祖劉淵の父は誰なのか? 劉淵出自の謎~於夫羅の弟、息子は疑惑ばかり~

 

 

於夫羅の弟、息子には実は全員年齢疑惑がある。

弟呼廚泉、劉宣、息子劉豹、全員である。

 

 

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●於夫羅の息子「劉豹」の嘘

 

そもそも劉豹という人物は何者なのか。

 

曹操の匈奴統治策遂行のプロセスの中でどういった立ち位置として

登場するのか。

 

実は劉豹は三国志に出てくる。

 

董卓敗死後、

192年李傕と郭汜らによる反乱に際して、

後漢献帝を助けに幷州から長安にやってくるのが劉豹である。

 

この乱の最中、蔡邕の娘蔡琰(蔡文姫)を救い、

劉豹は自身の側室とする。

子もなした。

 

後に曹操が蔡琰の才能を惜しみ、

207年に劉豹から、財宝で買い戻す。

 

このエピソードが劉豹である。

 

192年に劉豹は既に側室を娶る年齢であり、

一軍を率いる立場にあったということだ。

 

なので上記の劉豹の死没時年齢推定は100歳を超える。

 

劉豹の死没年は279年、

192年の時には15歳以上とみなすと、

劉豹の死没年齢=15歳以上+87歳=102歳以上

 

である。

 

ということで於夫羅の子であることは現実的にあり得ないことがわかる。

 

劉豹は世代的には、

羌渠・去卑にかなり近いか、

もしくはその子供世代、於夫羅、呼廚泉と同世代と見るべきである。

 

彼らは全て親漢、親曹操であり、

劉豹もその立ち位置である。

 

 

●於夫羅の弟「劉宣」の嘘

 

また、劉宣という人物がいる。

劉淵が304年に自立する際に

匈奴本国にて劉淵と連絡を取った人物だ。

事実上の匈奴漢の建国者とも目されている。

 

系図を見ると、

劉宣は於夫羅、呼廚泉と兄弟である。

普通に考えて、弟になる。

 

だが、どうなのだろうか。

 

劉宣は304年に存命で、308年に死去する。

生年は不明だ。

 

於夫羅が長兄だとして推定してみる。

於夫羅は195年に死去している。

後漢帝都洛陽に父羌渠の無念を訴えに来ている。

これは政治力があることを示唆する。

すなわち成年であることは間違いない。

 

於夫羅がもし匈奴漢自立の304年に存命だったら、

匈奴の自立当時には114歳以上になってしまう。

 

195年に於夫羅は最低でも15歳以上と仮定する。

 

於夫羅が304年に存命だった場合の年齢

15歳以上+99歳=114歳以上

 

その弟世代が、この匈奴漢自立のタイミングに存命であるというのは

疑わしいと考えざるを得ない。

 

劉宣は、

於夫羅死没の195年の時に、最も年少としても7歳なのである。

於夫羅、劉宣の父羌渠は188年に死んでいるからだ。

 

劉宣は308年に死去する、。

 

劉宣死没時の年齢=7歳以上+103歳=110歳以上

となる。

 

これもおかしい。

 

さらに実は、比較的有名な呼廚泉にも疑惑がある。

 

呼廚泉もやはり生年不詳だ。

呼廚泉は277年晋に入朝して消息が絶える。

202年に曹操に反乱を起こした呼廚泉が277年に政治活動をしていたとなると、

最低でも75歳、父羌渠は188年に死去していることから、+15歳以上である。

 

呼廚泉の死没年を277年と仮定すると、

呼廚泉死没推定年齢=75歳+15歳以上=90歳以上。

 

これもやはり年齢に無理がある。

推定年齢は90歳近くに優になってしまう。

 

ここもおかしい。

 

 

於夫羅の弟、息子の系譜は全く信用できないことになる。

 

劉豹は①にて記載した通り、想定没年齢は99歳以上。

劉宣は、想定没年齢は110歳以上。

呼廚泉は、想定没年齢は90歳以上。

 

劉豹が於夫羅の子というのは非現実的、

劉宣が於夫羅の弟というのも非現実的、

 

於夫羅の弟で確定されている呼廚泉にすら、

このように疑惑がある。

 

単于家の主要人物の三人にこのような疑惑があるのである。

 

何かこの辺りに何かの真実が隠れている気が私はする。