歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜中国史・日本史全般拡大中

これまでは三国時代から西晋。今は八王の乱、永嘉の乱。八王の乱、永嘉の乱は最高に面白い。

石虎の治世=慕容皝、庾氏三兄弟との戦い=

 333年の石勒の死後、

4年かけて石虎は石勒を継承した。

 

 

荒々しい猛将のイメージの強い石虎にしては、

案外と慎重だ。

 

体制を固めた後も、

石虎は案外と手堅い。

 

大きな勝負に出ることはなく、

比較的穏やかなのが、この石虎の時代である。

 

●時間をかけて石勒を継承した石虎、外征へ出る。


337年に石虎は石勒を継いだ。

ここから石虎は外征を行い始める。

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上記が石虎の外征図である。

※「中国歴史地図集」引用。

 

 

このタイミングで遼東、遼西で動きがある。

長らく事実上の独立勢力として遼東に割拠してきた、

鮮卑慕容部が燕王と称して独立したのだ。

鮮卑慕容部は東晋の冊封を受け、

石勒時代から長らく後趙と対立してきた。

だが、鮮卑慕容部から、

後趙の傘下に入りたいと使者を送って来たのである。

 

遼東の慕容部は、

遼西の段部との抗争が激化していた。

きっかけは、

慕容部総帥慕容皝(ボヨウコウ)の庶兄で

名声のある慕容翰(ボヨウカン)の、段部への亡命だった。

慕容皝はどうしても段部を叩きたかった。

 

慕容皝としては、東晋に付属しているので、

東晋が南から北へ攻めてくれれば非常に有難い。

 

しかし、東晋は長らく江南に逼塞し、動きが見えない。

東晋は当時庾亮が最高権力者の時代だったが、

蘇峻の乱を引き起こしたこともあり、

リスクを背負っての思い切った行動がしにくかった。

 

慕容皝としては東晋が動くのをもう待てなかった。

目の前に庶兄がいるのに耐えられなかったのである。

 

鮮卑慕容部はいよいよ独立。

慕容部の大人慕容皝が燕王を称す。

東晋の冊封から離れ、独立した行動を取る。

後趙の石虎と手を組む。

 

王であることがポイントである。

皇帝となると、

東晋皇帝と趙の天王とは

それぞれ不倶戴天となってしまうので、

王に留めた。

皇帝は同時に二人いては絶対にいけないのである。

 

慕容皝の目的は鮮卑段部の壊滅であった。

 

石虎に対して、「称藩」となると使者を出す。

「称藩」とは、宗主国として認め、

服属することを意味する。

慕容部は東晋から後趙へ鞍替えしたということになる。

 

石虎は、皇帝ではないが天王であり、天子である。

天王石虎は東晋皇帝に対して、

文字通り不倶戴天の敵であり、

その石虎と慕容皝が手を結ぶということは、

東晋との手切れを意味する。

王となる、石虎と手を組む、

というのは深い意味があるわけである。

 

東晋と手を切って、

長年の敵である、後趙は石虎と
組んででも、

鮮卑段部を滅ぼしたかったのである。

とにかく、慕容皝は鮮卑段部を滅ぼして、

庶兄慕容翰を処理したかった。

庶兄で武勇に優れていた慕容翰が邪魔だったのである。

慕容翰は

母の出自が卑しかったので後継者になれなかった。

だが、

慕容翰は儒学を修め、評判も良く、

慕容皝にとってとにかく目障りだったのである。

こうしたエピソードは、

後年の慕容恪を思わせるような存在である。

慕容翰の母の出自は不明だが、慕容恪同様漢人だった可能性がある。

 

338年1月から3月の期間に、

東西から、

石虎と慕容皝がそれぞれ段部を挟み撃ち。

段部を殲滅する。

石虎は親征するほどの気合の入れようだった。

石虎としては石勒後継後の初めての外征であり、

何とか成果を挙げたいところである。

 

鮮卑段部の殲滅は成功する。

しかし、この後、

石虎と慕容皝は仲違いをする。

 

●石虎、慕容皝と仲違い

 

理由は、慕容皝の撤退が早すぎたとか、

慕容皝の方が略奪の取り分を多く取ったなどがある。

どれかが事実だとしても、修復不可能なレベルの問題ではない。

石虎は初めから、慕容皝まで攻略しようと考えていたと

考えることもできる。

 

しかし、この石虎と慕容皝の、鮮卑段部に対する共同攻略で

得をしたのは慕容皝である。

 

結果として、

慕容皝は鮮卑段部の領域、遼西から幽州にかけてを手に入れた。

更に、邪魔だった庶兄慕容翰の身柄を確保できた。

 


石虎も石虎で、確かに暴虐な部分もあるが、

鮮卑慕容部も慕容部で対外的には非常に敵を作る国である。

そのために、

この後、前燕から後燕、その滅亡に至るまで、

周囲は敵ばかりである。

その代わり、慕容部はとにかく戦争に強いので、

自らの力に相当な自信があったのだろう。

外交は軽視するけいこうにあるのが慕容部である。

 

むしろ、石虎の方が不器用で、

自らの治世において対外的な成果は挙げられなかったことを

見ると、これは慕容皝の謀略だったと私は考える。



石虎は慕容皝の裏切り行為に怒り、

鮮卑段部を滅ぼした余勢で、慕容部を攻撃、

首都棘城(現在の遼寧省朝陽市郊外)を包囲。

 

しかし、

一か月包囲するも落とせず、撤退。

これを、慕容皝の子、慕容恪が追撃。

後趙石虎軍相手に大勝。

慕容恪のデビュー戦である。

慕容皝率いる慕容部、前燕の勝利である。

 

339年にはこの情勢を見た東晋が

慕容皝の王号を認める。

東晋は遼東で暴れている慕容部と手を結んで、

石虎の裏を突いてくれる方が有り難かった。

 

そして、

石虎は鮮卑慕容部の勢力伸長に手を貸しただけになってしまった。

 

●東晋庾亮に北伐の動きあり、機先を制す。

 

東晋の庾亮はうまく実を取る。

 

庾亮は蘇浚の乱を329年に鎮圧してから

北伐を実行しようとして来た。

それは、

340年に庾亮が死ぬまで変わらなかった。

 

蘇峻の乱を起こした張本人としては

汚名をいつかは

晴らしたかったのである。

 

しかし、石虎はこれを察知。

339年に、

養子石瞻の子、石閔を派遣して、

庾亮を叩く。

 

庾亮の北伐はこれで実行できなくなった。

そのまま庾亮は失意のまま死去するが、

その想いは弟庾冰、庾翼に引き継がれる。

 

 

庾冰、庾翼が343年に

荊州方面から北伐を実行。

しかし、国境地帯にある樊城の攻略に失敗。

 

東晋の北伐を撃退する一方で、

石虎は涼州の前涼の制圧を目指す。

343年、347年と二度攻撃するも

結局失敗。

 

●外征は上手くいかなかった石虎時代。その代わり平穏であった。


このように、

後趙の石虎は軍事行動を起こすも、

国境線でのせめぎ合いが続き、

現状維持を余儀なくされる。

結果だけを見れば、大した動きがなかったのが

この石虎の時代である。

 

石虎の治世は過酷だったと言われる。

ただ、相当に酷評されているので、

そのまま信用することもできない。

ある程度割り引いてみなくてはいけない。

 

後趙の内地においては、

それなりに平穏な時代が久し振りに続いた時代であった。

石勒の死後に石虎が継いでから、石虎が死ぬまで、

辺境地帯以外は比較的平穏だったのだ。

 

石勒の下で、数々の武勲を挙げた、

名将の一人と言える石虎。

それがこの程度の外征に終わったということは、

無理な戦いはしなかったということになる。

石虎は自重することができる、

自制心のある君主であったと私は考える。

 

 

 

 

 

 

ただ、

匈奴漢の劉聡のように

異民族視点での統治が

行われていたことは間違いないと思われる。

 

劉聡が劉淵の路線を踏襲しなかったように、

石虎は石勒の胡漢融合路線は引き継がなかった。

というより、元々引き継ぐことはできなかった。

石虎に、

そのような概念はないからである。

 

348年、

石虎の異民族らしい弱肉強食政治がほころびを見せる。

太子の石宣が廃嫡の恐れから、

父石虎を殺害しようとする。

 

計画は石虎に察知され、

逆に石宣は石虎に殺される。

 

但し、さすがの石虎も身内の裏切りに

ショックを受けたか、病に伏す。

 

助けようと思った孫さえも

処刑官に殺されたからというのが

表立っての理由だが、

石虎がだからといって法に従うわけでもない。

止めようと思えば止められた孫の処刑を実行させたのは、

それは皇太子の子孫を残すわけにはいかなかった。

 

身内に裏切られたことが、

一人の人間としてショックだった。

 

暴虐無比の帝王と言われる石虎だが、

この辺りに石虎の人間臭さを感じる。

 

 

石虎は病に伏せる。

349年に入り、

長らく天王だったが、ここで皇帝につく。

ここは漢人と異民族の融合を目指した、

石勒の考えを意識していたのか、

意外にも石虎は最晩年まで皇帝にはなっていなかった。

 

繰り返しになるが、

当時の考え方として、

漢人の間では異民族は皇帝になれない、という

根強い考え方があった。 

それに配慮したものであった。

 

しかし、石虎が天王のまま死去すると、

石勒からの後継が中途半端なものになる。

それは、石虎の後継者に影響を与える。

石虎、および石虎の子孫達に対して、

正統性の疑義を提示することができる材料となる。

そして、病のためか、それとも身内の裏切りのためか、

石虎は自身の将来を悲観したのだろう。

 

石虎自身の人生の締めくくりとして、

ここで石虎は皇帝になった。

 

病は癒えることがないまま、

そのまま石虎は崩御する。

後を継いだのは。

10歳の石世であった。