歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

謝安を6つの視点から批判する③〜陪臣の意味〜

謝安批判の三つ目の視点。

 

それははじめての任官が

陪臣である点である。

 

 

陪臣は日本の呼称である。

ただわかりやすいのでここで使う。

陪臣とは、臣下の臣下、という意味である。

 

再度、

「中華の歴史05 中華の崩壊と拡大」p129ー130にかけての文章を引用をする。

※下記の文章が悪いというのではなく、

これが謝安に対する歴史的な定評である。

論調は王道であることは強調したい。

※丸数字は引用者の追記である。

 

↓引用文ここから

ーーーーーーーーーーーー
「③
四十歳を超えて桓温の軍府の副官(司馬)となった人物である。

桓温も深く彼の才能を愛し推挽に努めたが、
謝安自身は

桓温の禅代(引用者註。代【=王朝のこと】をゆずる。禅はゆずるの意味。)に

対して反対であり、」

 

ーーーーーーーーーーーー

↑引用文ここまで。

 

初の任官は桓温の副官である。

これはどういう位置付けか。

 

時代ごとにこの位置付けは変わる。

 

それに関して下記で述べながら、

この謝安の扱いに関して言及していきたい。

 


●③の反論~陪臣~

 


不思議なのは、

謝安が官に就いてもそれは

桓温の司馬であったことである。


これは額面通り考えると

謝安にとっては大したことのないポジションである。

 

まずこれは陪臣である。

桓温の副官であり、皇帝の直臣ではない。

上記引用文の「中華の崩壊と拡大」のなかでは、

副官とあるが、

これは桓温にたくさんいる副官の一人に過ぎない。

 

桓温の副官とは何か。

 

桓温は大司馬である。

大司馬は、開府を許される。

桓温のように、開府をすると副官を設置することになる。

 

 

開府というのは一部の最上位官職に就いたものが許されるものである。

 

この大司馬府を運営する幕僚が必要なのである。

各部門を統括するのが副官である。

 

その副官の中で、トップは長史である。

司馬は、軍事部門を統括する。序列としては、

長史の下で、副官のトップではない。

 

・開府の副官のポジションについて

 

 

歴史的に事例を挙げる。

 

・諸葛亮ー費禕・楊儀の場合。

 

蜀漢の諸葛亮は丞相として、丞相府を開く。

魏末の司馬師、司馬昭は大将軍として大将軍府を開いている。

 

諸葛亮の丞相府において、司馬だったのは費禕である。

諸葛亮は劉備の臨終時において全権移譲の勅令を受けているので、

丞相府は事実上の最高執務機関である。

さらに蜀漢は北伐を国是としており、

軍事部門の力が強い。

だから、丞相府の軍事部門を統括する司馬である費禕のポジションも

実態は非常に高位である。

そして費禕は後に録尚書事として蜀漢の最高権力者になっている。

 

なお、諸葛亮の丞相府の長史は楊儀である。彼は漢中にいて諸葛亮をサポートする。

その次位になるが、帝都成都に常駐する、留府長史であったのが、

蒋琬である。諸葛亮の代官として、成都に駐在し、

皇帝劉禅に取次をするのである。


上記の、費禕や楊儀の事例からすると、

何か開府の司馬という副官はポジションが高いにように見える。

 

だが、諸葛亮とは異なり、

桓温は皇帝から全権移譲を受けているわけではない。

また諸葛亮の生きた三国時代とは変わって、東晋において、

開府を許される人物は非常に増えていた。

 

東晋では、

諸葛亮のように唯一の開府ではなく、

何人かが開府している中の一つであるということである。

 

桓温の大司馬府は、

全権掌握をした諸葛亮の丞相府までの権力を持っていないということである。

 

・司馬師ー賈充の場合

 

また司馬師の大将軍府において、

副官の参軍についたのが、

賈充である。

 

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費禕と同じくこれもまた、後世の大物であるので、

何か開府の副官はポジションが高いように見えるがそうではない。

 

賈充はその前の政変により下野していた。

しかし司馬師は賈充の才能を認めていた。

賈充の無官というタイミングもあり、大将軍府の

参軍になった。

これが後々の賈充一族が栄華を誇るきっかけになるが、

そもそもこれは大幅なポジションダウンである。

賈充のように父賈逵が皇帝の直臣として豫州刺史として辣腕を振るっていた

嫡子としては、本来はあり得ない処遇なのである。

 

・曹操と夏侯惇は同僚である。

 

もう一つ事例を挙げよう。

後漢末のことだ。

 

曹操が最高権力者として、

後漢の実権を握っており、

そして魏王として鄴において自身の王廷を持っていた。

 

そしてこの魏王府には魏王府としての官僚機構があった。

これら魏王府に属するものは

厳密に言えば後漢皇帝から見れば陪臣であり、

ポジションとしては本来は大したものではない。

 

しかし曹操が後漢の最高権力者であるので、

彼らは高い権限を振るえる。

 

一方で、夏侯惇という将軍がいるが、

彼は後漢の直臣であった。

 

曹操から見ると、

夏侯惇は氏は異なれども、血族の関係である。

(曹操の父は夏侯氏の出身)

 

後漢が董卓により、

滅亡寸前まで行った時に、

奮戦して後漢を盛り立てたのが曹操だが、

その同輩として夏侯惇もいた。

 

だから後漢献帝は、

両者を後漢皇帝の直臣にしている。

もちろん曹操の方が序列は上だが、

夏侯惇は序列が下位とは言え、

同じ後漢の直臣の、同僚なのである。

 

曹操が後漢の実権を掌握しても、

その関係は変わらなかった。

 

曹操は、

最後の最後まで夏侯惇を自身の直臣にしなかったので、

両者の最晩年、夏侯惇の方から曹操に直臣にして欲しいと言っているぐらいだ。

 

これは曹操の方が夏侯惇に配慮をしているためである。

曹操と夏侯惇は同じく後漢皇帝の直臣である。

序列はたしかに曹操が上で、夏侯惇の方が下だ。

 

しかし序列はあれど、同僚であることは変わりない。

それぞれ、曹操も夏侯惇も、配下がいる。

曹操の場合は、この配下組織が大きく、

晩年には魏王として一つの国としての体を成していたが、

夏侯惇にもそれはあるのだ。

 

その、曹操からすれば同輩の夏侯惇が、

曹操の配下、これが魏王という名前になると錯覚が起きるのだが、

曹操の配下に入る、後漢皇帝の直臣、つまり配下であるのを辞めて、

となると、それはおおごとということになる。

 

皇帝の配下を辞めて王の配下になるのだから、

ポジションダウンは間違い無いわけであるから。

 

●そこまですごくない謝安。

 

 

桓温は、

曹操や諸葛亮のように全権を掌握していない。

 

その程度の桓温に謝安が仕えたということは、

謝安がその程度だったか、それともイレギュラー対応として桓温に仕えたか、

そのいずれかである。

 

陪臣というのが

ポジションとしては相当に下である。

 

謝安が陪臣である、桓温の司馬になっていたというのは

どういうことであろうか。

 

まずは謝安が桓温のことを、

認めていた可能性が私は高いと思う。

 

ここは素直に行くべきだ。

 

夏侯惇が曹操に対して抱いていたようにとまでは言わないが、

近しい心情をもっていたのが普通では無いかと。

 

そしてさらにいうと、

謝安はこの時点では、

その程度のポジションにしかつけなかったとも言える。

 

桓温は、

曹操や諸葛亮のように全権を掌握していないのに、

わざわざ桓温の副官になるのはわけがある。

 

謝安および陳郡謝氏が貴族名族のトップになったのは

淝水の戦いの後である。

 

この時点では、

謝安は桓温の司馬程度にしかなれなかったか、

それとも敢えて謝安が桓温の副官を選んだかのいずれかだ。

 

40歳まで無官だったというのは言い訳に過ぎない。

 

何故なら、

同じく清談の名士殷浩は、

仕官して直ぐに揚州刺史になったのだから、

東晋ではいきなり皇帝の直臣として、

現代日本でいう東京都知事のようなポジションにつくことはあり得るのである。

 

謝安は大したことのない人物であったか、

それとも、

謝安が桓温に心酔して自分から仕官を申し出たか、

そのいずれかである。

 

私は、このいずれもが理由だと考える。

 

桓温は、

貴族名族の懐柔の一環として、

謝安を副官に迎え入れるも、そのインパクトは多分に大したことはなかった。

 

それは桓温は最後まで貴族名族たちの懐柔を

成し得ることがなかったことからもわかる。

 ●参考図書:

 

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